2021年11月07日
不易流行
昨日(11月6日)愛車を駆って道の駅「おがわまち」(埼玉小川町)に出かけた。
自宅からの距離は片道約42km(下道)、愛車(アコードハイブリッド CR6)の燃費は往路復路共におおよそ27km/Lだったので、ガソリン消費量は約3Lとなり燃料費(レギュラー標準162円/L)で換算するとワンコイン(約500円)のドライブだった。
この車が採用しているi-MMDと呼ばれるシリーズハイブリッド(発電・走行用の2モータ)はEV走行を基本とし(ガソリンエンジンは発電専用)、高速域のみエンジンが駆動軸と直結するので基本走行の場面(下道走行)で燃費を稼ぐ仕組み。
この仕組みではガソリンエンジンの始動を抑えるようなアクセル操作は却って燃費を悪くする。あえてエンジン始動も伴うメリハリのあるアクセル・ブレーキ操作(ブレーキは停止の直前までエネルギーを回生する)こそ基本走行に寄与することが判った。つまり、リチウム蓄電池の電力の出し入れを頻繁にすることが高燃費の基本走行となる。逆に言えば、その出し入れのないハイウェイ等の高速巡航や登坂走行では燃費は良くない。
燃費を稼ぐ場面に於いて以前の愛車マツダ・デミオ XD Touring(ディーゼル)は正反対で、停発進を繰り返し渋滞も多い道では途端に燃費は悪化する。首都圏の生活道は概ねそうなので平均14km/L程度の燃費だった。DPF再生の頻度および所用時間も増し再生しながらの走行では9km/Lともなり、いくら軽油がレギュラーに比べて割安とはいえ日常の足として使うにはデメリットが多く、他に用事もないのにDPF再生が完了するまで30分ほど余計に走行しなければならないなど煤払いに気を使うのは精神的に良くなかった。
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さて、そのアコードにも問題がある。デミオに比べ後席空間が格段に広がったのは良いのだが、ウインドウも比例して大きい。スモークがないウインドウ(CR6ではリアのスモークガラスは設定されていない)では日差しが盛大に入り込み、後席に乗ることが多い家内から苦情が出た。リアウインドウは装備されている電動シェードでどうにかなるものの、リアのドアウィンドウは何か措置をしなければならない。そこでメッシュタイプのカーテンを吊るすことにした。
「オートデコールII」という商品のLサイズとMサイズを各1組ネットで取り寄せ、カーテンレールをドアウインドウ内側の上下に設置しカーテンを吊るした。この商品はレール方向の長さが半端で1組分で施工すると窓の後端(クォーターウィンドウ)迄は及ばない。そこで2組が必要となる。メッシュタイプだが日差しを遮り、内側からの視認性も大きくは損なわれず外側から後席は見えないというプライバシー用途も兼ねている。昨日はこの季節とは思えぬ陽気だったのでカーテンが活躍した。
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車を置いて道の駅「おがわまち」の裏手をカメラ(Sigma DP2S)片手に散策した。
清流(槻川)沿いの鬱蒼とした森にカタクリと国蝶であるオオムラサキの宿生地もあるようだ。
道祖神や道地蔵に挨拶をしながら、仙元山遊歩道に向かう。
その山の頂上に以前から気になっていた「仙元山見晴らしの丘公園」がある。
「遊歩道」とは名ばかりの傾斜のきつい登山道は、在宅勤務ですっかり怠けた体には酷く堪えすぐに息が上がってしまった。鬱蒼とした木々や落ち葉を斜めになった日が美しく照らしている。
休み休み40分位登って頂上に着いた。展望台からは、外秩父の山々に囲まれた小川町の全景と筑波山・男体山・赤城山・榛名山などを一望。
Sigma DP2Sの他にアナログカメラのExakta VX1000も携帯していたので、この眺望を撮影(レンズは超広角のCarl Zeiss Flektogon 4/2.5)。フィルムでの撮影結果は後日報告したい。
遊歩道ならぬ登山道を踏みしめて達する頂上には駐車場があった。つまり山頂まで車で来られるから「公園」というわけ。再び登山道を下ってはさすがに膝が笑いそうなので車が通う舗装された林道(仙元山線)を下る。途中、木々の幹に妙な箱が取り付けられているのに気付いた。この筒にはトレイルカメラが仕込んである。つまり、けもの道に自動撮影のトレイルカメラを仕掛けてムササビや鹿などの野生する動物を観察する目的なのだろう。
この手のトレイルカメラは焦点距離が長いので野鳥の観察向きではない。余談だが我が家の愛鳥(セキセイインコ)を近接して撮影する際は、iPhone/iPodTouch用のアプリ Cambushを使っている。iPhoneやiPodTouchのカメラを動体検知カメラに変えるこのアプリがあれば、自動焦点のレンズと相俟って近接撮影のトレイルカメラ にiPhoneやiPodTouchが早変わりする。
私は未だスマホは所持しておらず、音楽や動画再生目的でiOS 9.3.5の古い世代のiPodTouchを愛用しているが、Cambushがインストール可能なので、以下のような動画を撮影することができる。
動体検知機能が働いた時のみ撮影する。つまり対象物がレンズの前に現れ動作する間だけ動画を収録できる。ベランダに時折現れる雀もこの簡易トレイルカメラなら警戒されずに撮影できるだろう。いずれ試してみるつもりだ。
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習慣とは恐ろしいものでこんな人気のない山奥でもマスクをしている。息が辛いのでマスクを外した途端、山の息吹が胸いっぱいに入ってきた。新鮮で芳しい空気に感動し癒され、同時に流行ばかりに気を取られ不易たるものをすっかり忘れた我が身を知った。車でササっと「公園」を訪れてはきっと気づくことのない不易。そこではマスクを外す者はいない。
マスクとは自然界との疎通までも遮断するむしろ百害なのかもしれない。
不易なき流行を知る。これがワンコインの旅の最大の収穫だった。
(おわり)
posted by ihagee at 09:35| 日記
2021年11月02日
商標登録前の『五輪』の世界はどう見えるのか
「IOCを相手取った」IOC登録商標『五輪』無効審判について、同無効審判の請求人でもある三木義一氏(弁護士、前青山学院大学学長)主宰のYouTubeチャンネル『庶民大学TV Japan』に以下最新動画がアップロードされた(ゲストは同じく請求人である柴大介弁理士)。
IOC登録商標『五輪』無効審判での無効理由を理解するには、商標制度の基礎を知る必要がある。前回動画の続き。
商標登録前の『五輪』の状況が(IOCの登録商標と使用商標『五輪』との関係、使用商標『五輪』の表示主体等)すなわち無効審判の理由となるのでこの辺りの理解は重要である。判りやすく解説されており視聴をお勧めしたい。
キーワード:
・IOCの登録商標と使用商標『五輪』は類似(観念類似)
・IOCの登録商標は公益著名商標
・公益著名商標に対する使用商標の類否判断→例外(使用商標の商品・サービスの類否に拠らない)
・使用商標『五輪』の表示主体=大衆(歴史的観点・事実)
・使用商標『五輪』の表示主体=IOC(法的観点・禁止権の範囲)
・使用商標『五輪』を大衆は違法に使用し続けた(法的観点・禁止権の範囲)
・IOCは大衆の『五輪』違法使用(商標的使用)に対して一度として禁止権(差止請求)を行使しなかった(法的観点)
・今更国民総懺悔か?→商標制度はこのような世界をどう捌くのか?(→次回動画に続く)
(おわり)
posted by ihagee at 02:26| 東京オリンピック
2021年11月01日
衆議院議員選挙結果への一言
少なくとも私の周辺の人々の政治意識が「またも」反映されない衆議院議員選挙結果となった。<現実感>がないバーチャリティの臭いが芬々とする。(2017年10月23日ブログ記事から)
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前回と同じ所感を繰り返さざるを得ない。その上でさらに維新の全国的な躍進という懸念材料まで生まれた。コロナ禍を利用し緊急事態条項を憲法に創設する与党補完勢力の大躍進という意味である。
「社会不安、社会危機を解消するため、個人の自由を大きく制限することがあると、国会の場で決定していくことが重要だ(吉村洋文・大阪府知事会見 / 2021年4月23日)」
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" 「コントロールのない権力が、危機の常態化を理由として、内側から立憲主義をむしばんでいったり、立憲主義的な統制がやぶれていくということを過去の歴史上、繰り返してきた。」(2016年5月2日付弁護士ドットコムニュース記事から引用 / 石川健治東京大学教授(憲法学))"
「社会不安、社会危機を解消するため」。何を以って社会不安なのか社会危機なのか、それこそ法律に定めれば無限定になるその他の法律で定める緊急事態を含むからこそ、私権制限論から発する緊急事態条項創設(憲法)はその目的(「社会不安、社会危機を解消するため」)と手段が整合せず、その目的に隠された動機があると、我々は用心しなければならない。
その目的とは緊急事態条項を以って、司法国家から行政国家への、すなわち、「国家」「国家権力」が「個人」の生存する権利を縛るという大転回(革命)である。「国家が人の人格的生存を侵すのは国家の誤作動。国家が人権に対していくらでも条件をつけることができてしまう。(小林節慶大名誉教授)」
この誤作動は2011年大震災を境にして、「私がそう思えば法律」と憲法まで閣議決定で自在に政治解釈する安倍政権で繰り返されてきた。
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そして、コロナ禍を利用したこの大転回・国家の誤作動が欧米諸国で起きている。
mRNA/DNAワクチン接種に関連し公衆衛生への公的関与を理由に「他者の選択の自由を認めないこと」から始まり、他者の生存権すら奪っても然り(ワクチンパスポート ・グリーンカードがない者の社会生活からの差別・排除)とする国家権力の台頭である。これは裏返せば、司法国家であれば問われるべき「政治家の責任放棄」も極度の行政国家ではもはや問われることはないということだ。
今般の衆院選挙の結果で、欧米で吹き荒れる上述の大転回・国家の誤作動がわが国でも愈々懸念されることになった。
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今回の衆院選挙は安倍政権下で続いた立憲主義的な統制の破れに対する国民の審判の意義が大きいが、その結果は思わしくない(<現実感>がない)。立憲主義的な統制の破れはそもそも投開票プロセスにあるのではないか?投票用紙に始まって開票・集計作業全般<選挙システム>の公正性は国民の監視に付託すべきと考える。
投開票プロセスが公正であるのか?すでにこの段階で「法の支配と秩序」がやぶれているのではないか?と疑いを持つことは重要である。なぜなら、投票用紙に始まって開票・集計作業全般<選挙システム>の公正性は国民の監視に付託されていないからだ(公職選挙法第204条に規定の選挙の効力を問うことは可能だが「門前払い」が横行し実質形骸化している)。
その<選挙システム>、特に自動開票・集計システムについて我々は全くブラックボックスに置かれている。読み取り・仕分け・集計に用いるソフトウェアのソースコードは一行たりとて開示されていない。投票所の係員の誰一人としてそのシステムの詳細を説明することはできないだろう。このように「法の支配と秩序」が主体的にこのシステムの内側を照らすことはないのである。
選挙という民主主義を支えるシステムの根本が、一民間業者(選挙機材メーカ)にほぼ寡占され(委ねられ)、且つその業者の企業秘密(ブラックボックス)は国民の知る権利よりも勝る状態であれば、そもそも、「法の支配と秩序」があるのかと疑っても当然だろう。
平たく言えば、薬局で用いる計量秤が狂っていれば、下手をすれば投薬された人の命に関わる大ごとと同じで、だから用いる計器は計量法の下で、国際的に統一された計量基準と各種計量器の正確さを維持するためのトレーサビリティの維持が義務付けられている。同じことがこと<選挙システム>には義務付けられていないのである。
選挙結果云々で開票・集計作業の公正を疑うのは負け犬の遠吠え・陰謀論(不正論)、などではなく、結果がどうであろうと、民主主義を支えるシステムの根本についてその公正性は常に我々有権者自身が問うべきだろう。投じた一票は命と同じ重さだからだ。
(おわり)
posted by ihagee at 05:54| 政治