2021年02月25日

運営には支障がない



” 東京五輪・パラリンピック組織委員会は24日、森喜朗前会長(83)の女性蔑視発言が発端となった一連の“ポスト森騒動”の期間中のボランティア辞退者が約1000人に上ることを明かした。この数字は森氏が失言を発した翌日の今月3日から23日までの20日間の数字。ボランティア全体の約8万人から換算すると約1.25%となる。組織委は「今回の経緯を踏まえ、辞退された方には大変申し訳ない気持ち」とした上で「運営には支障がない」との見解を示している。”(東スポWeb 2021年2月24日付記事引用)

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ボランティア(英: volunteer)とは自らの意志により(公共性の高い活動へ)参加する人のこと、またはその活動のこと(wikipediaより)。組織委はそれを単なる数の多寡としかみていないから「運営には支障がない」などと見解を出す。

ボランティアが戦争に関わると「義勇兵」「志願兵」と呼ばれ、人間ではなく消費されるモノ(肉弾)扱いにすれば、古代ローマ時代の「奴隷兵」にその「ボランティア」の語源は遡る。

本来、個人の「自由意思」であるべきことを、後から補填が利く・埋め合わせができる、と数やモノ同然に扱えば行き着く先は「義務・束縛」になることを「ボランティア」は語源に背負っている。つまり、ボランティアの「自らの意志」もやがて国家から客体化されるとき、国家が人権に対していくらでも条件をつけることができてしまう(小林節慶大名誉教授)」<国家主義>への大転回が始まる。「運営には支障がない」はその客体化の始まりと私は見るが、それは穿った見方なのだろうか?

個人の「自由意思」を国家が客体化すれば、「おやめになりたいというのだったら、新たなボランディアを募集する(二階自民幹事長)」という言葉になる。この発言に《上から目線》《非常に不愉快》《ボランティアなんていくらでもいるっていいたいの?》《ボランティアの心をさらに傷つける発言》《国民を奉公人と考えているのか》・・とネット上で世論が反発したが、<国家主義>への大転回を薄々感じ取った人も多いのではないだろうか?

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「国を維持するためには自分に何ができるか」に基づいて<家族>を単位として国のために何ができるかを<義務>として課す考え方(自民党憲法改正草案起草者・片山さつき議員『私達の基本的な考え方』)がその底に横たわっているということである。(拙稿:<家族主義の美風と大政翼賛>(自民党憲法改正草案第24条第1項)

大政に万人が翼賛する単位が家族であった時代に日本は戦争に突入した。<国家主義><国体・政体>とその為の<家族主義の美風>が、いかなる結果を招いたのかは歴史が示す通りであり、戦後敢えて憲法に「家族の互助を義務として盛り込むこと」をしなかったのは、その過去の反省の上に立つからである。

その反省も忘れ、捨て去った筈の大政翼賛運動をオリンピック開催を以って推進しようとしているのではないか?「わきまえて戴く(森組織委前会長)」は女性差別意識にばかりか「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く」といった民主主義と正反対の全体主義に立脚していることを見逃してはならないだろう。その通り、開催に異論を挟み得ない胸が今にも詰まりそうな重苦しい空気を菅政権は社会全体に充満させている。愛知県知事リコール投票に於いて、投票=自由意志をカネで買う民主主義への破壊行為も、そのリコールを呼びかけた者たちには明らかに「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く」と同じ共通項がある。

開催に一切異論を挟ませない橋本組織委会長、丸川五輪相も明らかにこの輪の中にいる。

「コロナに打ち勝った証(菅首相)」と言うに至っては、大政に万人が翼賛する単位が家族であった時代の勇ましい標語と変わりない。

(おわり)


posted by ihagee at 03:15| 日記