2021年02月14日

開催権返上と調停



” 森氏の女性蔑視発言によって図らずもTOCOGのガバナンスに焦点が当たっているが、IOCにとって予期せぬことであることは想像に難くない。オリンピック憲章に掲げる原則や理念といった建前がことさらに前面に出れば、本音である商業主義に迎合しその役割(森氏について言うところの「功績」)を森氏並みに発揮する人物を後任に期待できなくなるからだ。”

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森氏の川淵氏への禅定と自身の相談役就任構想は森氏なりの「何が何でも開催する」路線の継承であった。

IOCの実質エージェントであるTOCOG、そのトップの本音での暴走に内外の世論は大反発し、事態を収拾するには建前を振りかざして止めるしかIOCとしては立場がない。そこで、IOC→菅政権の介入で内定人事が白紙になったのが真相と思われる。しかし、そうすればTOCOGの最重要の役割であるスポンサー契約(スポンサーの繋ぎ止め)と協賛金集め(開催支援)に森氏並みに「本音」で辣腕を振るう者を後任の会長職に期待できなくなる。それでもIOCは良いと実(本音)を捨て名(建前)を取るのであれば、それはIOC自身、開催を断念することを意味する。

開催都市契約の内容を鑑みれば、捨てる実の後始末は開催都市および日本政府が行うことになる(IOCとの直接ライセンス契約=TOPについてのみIOCがその始末を行う)。TOCOGは事業主体として残務処理(債務整理)の道筋を付けた後に解散。つまり、フルスケールの開催を以ってIOC共々名実を得られなければ(開催中止)、IOCは名を取り、開催都市・政府は花芽の出ない実の始末をするしかない、そういう契約。ゆえに開催都市・政府にとって名実が取れなければそれは一方的な敗戦と残務処理(債務整理)となる。TOCOGの後任会長は「敗戦処理」を担うことになるとの一部メディアの報道に対して、たとえ開催中止となろうと我々の「敗戦」と言うはけしからんと憤る人が多いが所詮そういう結末も伴う契約なのである。

ポツダム宣言を受諾すれば、受諾した側にとってそれは敗戦であるにも関わらず、我々は8月15日を「敗戦記念日」ではなく連合国側の言う「終戦記念日」と呼ぶと同じで、ポツダム宣言にIOCの開催中止決定を重ねれば、その決定を受ける側は無条件降伏=敗戦。初戦勝利の有利な条件で連合国側と早期講和(調停)を締結するという選択を時の政府がしなかった結果でもある。

別の喩えをするならば、胴元がIOCのオリンピックというポーカーの賭けに我々は敗けたに過ぎない。胴元とは常にルールを作る側ゆえ胴元が大損失を被る賭場にはならない。そのルールが開催都市契約とも理解できる。

だからこそ、調停(勝ち負けを決めるのではなく,話合いによりお互いが合意すること)を目的とする開催権返上を開催都市である東京都はIOCに対して行うべきではないのか?返上の理由はコロナウイルス感染拡大(不可抗力)に伴うリスク回避であれば国際世論はその返上に味方し、我々にとって敗けにはならないかもしれない。開催権返上(小池都知事)を前提に、その後調停に持ち込める人物を後任会長に選ぶべきと私は考える。そうであればIOCとしても落とし所を図らざるを得ず、IOCの実質エージェントであるTOCOGが開催都市・政府とIOCとの間に立って調停の役割を果たすことに異を唱えることはないと考える。1940年東京大会、1976年デンバー大会は共に開催都市がその開催権をIOCに返上した事例だが、その時の返上の大義とその後の調停に学ぶところは多い。(拙稿「返上そして提案しか立つ瀬がない」)

(おわり)

posted by ihagee at 19:53| 日記

組織委はIOCのエージェント



東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会はおよそ40名もの著名人が名誉会長から理事・監事にその名を連ねている(参考:組織委一覧)。

辞任を表明した森会長に代わり、その職の役割なり責任を引き継ぐのはそれらの者であるべきところ(互選で)、外部に適当な人材を求めるようでは組織委自体リスク管理能力がゼロと自ら明かしていることになる。それでは、これらの者たちはひな壇の人形のようなお飾りに過ぎない。森会長の舌禍が組織委のガバナンス欠如、そして後任人事ではリスク管理能力ゼロ、川淵三郎氏の「内定」に絡んで官邸の政治介入を許した(求めたともされる)点では、コンプライアンス違反(オリンピック憲章では建前上、政治は不介入ゆえ)に問われる。つまり、組織として全く体をなしていない。

そもそも「余人を以って代え難い」などと外から言われても平気な組織委だから、所詮、責任など被るのは真っ平御免の余人集団なのかと疑心を抱かざるを得ない。それなりの報酬を得ていながらいざと言う時に「余人」に逃げ込むのならば無責任にも程がある。公益財団法人であるにも関わらずその果たすべき役割なり責任がいかにカネまみれであるかその者たちが森氏の「功績」から知っているからこそ、泥を被りたくないのだろう。

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東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会(TOCOG)は、2020年オリンピック・パラリンピックの開催地が東京に決定したことを受け、同競技大会の準備及び運営に関する事業を行うことを目的に、日本オリンピック委員会と東京都によって一般財団法人として設立され、その後、公益財団法人となった。

開催都市契約の「大会組織委員会の設立」項で、
”開催都市(=東京都)と NOC (=JOC)は、本契約の締結から 5 ヶ月以内に OCOG を設立するものとする。”と定め、
さらに、「本契約の当事者となる OCOG」項で、
”開催都市と NOC は、OCOG 設立後 1 ヶ月以内に、OCOG を本契約に当事者として関与させ、OCOG があたかも本契約の本来の当事者であるかのように OCOG に関わる本契約の条件および条項、ならびに、本契約で定める OCOG のすべての権利、保証、表明、声明、協定、その他のコミットメントおよび義務が、法的に OCOG を拘束するという意味において本契約を OCOG に厳守させ、かつ、その旨を確認する書面を IOC に送付することを約束する。かかる点について、開催都市と NOC は、前述の OCOG による本契約への関与および厳守を達成するため、OCOG に対して、IOC が要求するすべての文書に署名し、IOC に送付するよう義務付け、またこれを行わせるものとする。” と定めている。

甲:IOC、乙: 東京都、JOCの開催都市契約の関係に照らすと、OCOG =”OCOG を本契約に当事者として関与させ、OCOG があたかも本契約の本来の当事者であるかのように” とはすなわち、甲たるIOCの事業の委託先として契約に関わらせ、IOCに代わって行為(事業)主体となることであり、OCOGつまりTOCOGは実質IOCのエージェントである。設立義務があるのは乙であっても、設立されたTOCOGは実質的に甲のエージェントである点、甲たるIOCが優位の片務契約であるばかりか、乙はTOCOG に対して、IOC が要求するすべての文書に署名し、IOC に送付するよう義務付け、またこれを行わせるものとする、という利益相反の契約内容となっている。

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IOCは開催権を東京都に与え場所を借り、TOCOGはIOCに代わって行為(事業)主体となる関係では、TOCOGは実質IOCのエージェントである。エージェントだからIOCの指図には逆らえない。去年のマラソン競技会場の札幌移転決定に置いても、決定主体はIOCでありTOCOGは決定を追認する立場であった(東京都、JOCは蚊帳の外)。このことからも、TOCOGはIOCの手足に過ぎずIOCに先んじた決定権を何ら持たないことは明らかだった。

組織として本来当然求められるガバナンスは、開催都市契約を読めば統治主体はIOCであって、TOCOGに求められていなかったのである。スポンサー契約と協賛金集めがTOCOGの最重要の役割であり、その役割に於いてIOCの期待を100%実現する最適任者が森氏であり、その役回りを続ける限り、組織委はその森氏に逆らわない余人集団であって良かったということだ。

森氏の女性蔑視発言によって図らずもTOCOGのガバナンスに焦点が当たっているが、IOCにとって予期せぬことであることは想像に難くない。オリンピック憲章に掲げる原則や理念といった建前がことさらに前面に出れば、本音である商業主義に迎合しその役割(森氏について言うところの「功績」)を森氏並みに発揮する人物を後任に期待できなくなるからだ。

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普遍的根本的倫理規範の尊重を基盤とするオリンピズムを実現する為の活動(オリンピック・ムーブメント)の普及が平和でより良い世界の構築に貢献することである、とオリンピック憲章は謳う。

しかし、そのオリンピック・ムーブメントの実質は、開催都市契約に照らすと、対外主権(外交権能)についてIOCが行使する、あたかもIOCに宗主権があって開催都市は藩属であるかの関係に基づいているようにも観察できる。ゆえに、ガバナンス(統治権)は今さらTOCOGに求めるのであれば、開催都市契約の内容自体を見直さなければならない(契約当事者である東京都の開催権返上は此処に理由があっても良い)。

商業主義に傾斜するオリンピックとIOCの姿は、オリンピック憲章を聖典教義に例えると、神のためならそのムーブメント(布教活動)に剣(カネを源泉とする力)をも使えるとする十字軍的な覇権主義の名残とも見える。アマチュアリズムに徹し商業主義を排除すれば神の道を説く宣教師に過ぎない集団も、商業主義を取り込めば鎧に身を固めた十字軍になるということ。

中世ヨーロッパのキリスト教世界を中心とした正戦思想を継承する没落貴族集団のアナクロニズムに「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く(神の国発言)」の森氏がいかに相応しいか、いや、森的な神のためと大義を掲げて「わきまえて戴く」ことを国民に強要する空気がいかにIOCにとって好都合か、この一連の騒動で明らかになったのではないだろうか?

開催是非をこの際、開催都市の市民投票で決めることが「わきまえない」民主主義の発露である。主権者たる国民の総意は開催反対であることを示し、森的な人々こそ、そのことを「わきまえて戴く」必要があろう。

(おわり)

追記:
開催権返上と調停」に続く。



posted by ihagee at 10:59| 日記