2021年02月07日
「これじゃあ、いつか弾が尽きちまうだろ」
” こんな状態で本当に2021年の東京五輪なんてやるのかな? 最終的にどんな決定になるかは置いといて、そろそろニッポンは「お祭り依存体質」から抜け出したほうがいい。サッカーやラグビーのワールドカップにオリンピック、万博、カジノ誘致と、楽しげな“お祭り”をコンスタントに持ってきて、ドンドン経済のカンフル剤にしないと経済が持たなくなってきてる。これじゃあ、いつか弾が尽きちまうだろ。(ビートたけし) ”
(NEWSポストセブン 2021年2月6日記事から引用)
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” 「日本人:発想の原点=相手、発想方式=微分回路的、時定数=小、ゲイン=大
日本人の発想原点が相手の内にある理由は、発想方式が微分回路的であるけれども、時定数が小さくてほとんどゼロだから、真の微分Tsに近いためであろう。したがって、日本人の発想は相手の初動に振りまわされて自己の持ち味を発揮できないことが多いという結果になる。(中略)突発入力に対しては一瞬だけ衝撃的に反応を示すけれども、あとはしゅんと静まりかえって忘れ去るように見える。たとえば、なにか事件が発生したときの日本の週刊誌を見るがよい。時定数は七日にすぎない。(中略)日本人は漸変入力に対して、一時正しく反応する気配を見せるけれども、なにかスパートしない限り反応が思わしくない。ただし、日本人の平均的特性としてゲイン(増幅度)が大きく、これが反応をかなり実りのあるものにする。ゲインが大きいことは、発想の不安定発散につながるが、近世における日本の最大発散は太平洋戦争の敗戦であろう。これはゲインを抑制すれば防ぎえた現象であった。もっとも、同じゲインが戦後の経済成長に結びつくのであるから、原因と結果は循環小数のようなもので、途中で断ち切ることは不可能である。」(佐貫亦男著『発想のモザイク』(中央公論社)から)
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この「突発入力」に「お祭り依存体質」「カンフル剤」が差し詰め相当する。前世紀の東京オリンピックや1970年の大阪万博などは一般市民ですらそのゲイン(増幅度)を十分感じ取れる経済的成果をもたらした。
ゲインを大きくすれば歪みが増大する(スピーカと同様に音が割れる)。音が割れるとあたかも音圧があるかの迫力を得、その迫力が経済の弾み車として機能していた、真空管の歪みも音として受け入れていたアナログの時代性でもある。数射ちゃ当たる、と今のように弾数を気にするような懐具合の淋しさもなかった。
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分秒を争う経済の時代にあって突発入力のゲインの時定数は今や「七日」もない。東京オリンピック・パラリンピック競技大会は開催延期を決定した去年の時点ですでに時定数が0になっていたのだろう。延期ではなく中止と当事者はその時点で判断すべきだったのかもしれない。
その最大当事者(森喜朗大会組織委員会会長)の先日の性差別発言は、緊急事態宣言下、只でさえザワザワした入力信号ばかりのところでいきなりゲイン比を最大化し聞くに耐えない歪みだらけの轟音を国際社会に撒き散らしたとも言える。しかしオリンピック関係者は誰もそれを止めようとしない。もはや止められる者がいないそうだ。客観的判断ができず確たる目算もなく精神主義に傾き突進するしかない先が「敗戦」は、かつての時代が証明する。
「突発入力」頼みの日本人の発想はたまに大当たりがあるが、当たらなければ食いはぐれることも多い(日本の最低賃金が主要先進7か国=G7中は最低のまま・ジェンダーギャップも同様)。これは巷間言われるような働き方=労働生産性ではなく、明治維新爾来何一つ変わらない我々の発想のパターンに本源的な問題がある。
圧電素子のように始終「突発入力」を繰り返さなければ「衝撃的に反応」しない発想パターンは相手次第ゆえ、入力(刺激)の傾向をつかむ努力に常に全精力を傾ける。IOCのエージェントに過ぎない大会組織委員会と何一つ異見を持たないJOC、開催都市でありながら常に蚊帳の外に置かれる東京都、それら三者の相手(IOC)次第の右往左往ぶりは昨年、IOCから頭ごなしになされたマラソン競技会場の札幌移転決定で鮮明だった。
COVID-19感染対策に於いても、発生当初の点思考(クラスター)に未だ凝り固まって対処療法的にモグラ叩きを続けるばかりで一向に先手を打てず、外国のワクチンに望みをかけるしかない無策を棚に上げて、何を基準に勝ち負けを言うのかも分からない「勝った証(菅首相)」だとか、始まってもいないのにストーリー仕立ての「プロジェクトX(河野ワクチン担当相)」とか、勝鬨や成功譚など大本営的発表が先行する危うさにも現れている(拙稿「ハエ叩きでなぜハエを叩けないのか?」)。
その時々の入力(流行)に、また新たな入力(流行)を求めようとする点で、日本人の思いつき・ひらめき中心のパラパラした前時代的発想で良いのだろうか?その発想のままだと「これじゃあ、いつか弾が尽きちまうだろ」となるは然りだ。
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「突発入力」を始終繰り返して「衝撃的に反応」することを期待するような経済政策では「いつか弾が尽きちまう」とさすがに悟ってか、安倍前政権に引き続き現政権も佐貫氏の分析で言うところの「ゲイン」に比重を置いているようにも思える。ゲイン(出力にかける増幅度)を大きくすることによる歪み=異次元性(金融緩和)=不安定性(二極化社会)を意図し、あるいは、開国黒船よろしく外因を創出し(インバウンド需要・カジノ誘致・TPP等々)、他国の思考回路(特に新自由主義の価値観)に無理やり合わせてガラポン的な結果を期待しようとするが、運を天に任せる賭け事まがいの策ばかりで、発想の原点が自己にないことに変わりがない(明治維新以来今になっても変わらない)。その鉄火場に張られるのは我々の命だ。
大局的な物の見方ができず目先の利害や結果ばかりを追い求めようする我が国(特に政治)。常に経済的果実をもたらすとは限らない科学や学術に経済合理性を政治が求めるようでは(日本学術会議委員任命問題)科学の樹は根付かない(「科学の樹」のないこの国の暗愚)。さしたる考えもなく思いつきと勢いに任せて大股で踏み出し「顛倒しても」それが「ゲイン」というコインの表裏であり、戦争(武力紛争)なる表面が(敗戦を経て)経済成長という裏面となるかも知れない。しかしそれが国民にとって多大な不幸を伴うものであることはこれも歴史が証明するところである。
(おわり)
posted by ihagee at 14:36| 日記