2021年02月08日

森氏の功績?!



” 舛添要一前東京都知事(72)が7日、女性蔑視発言が問題視されている東京オリンピック(五輪)・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長(83)について触れ「今回、森氏の功績を語らない五輪関係者に絶句」とした。舛添氏は7日、ツイッターを更新。「森会長の女性蔑視発言は批判に値するが」と前置きした上で、「私が都知事時代に競技施設建設費を数千億円節約できたのは森氏のおかげだ。東京の施設代替を他県に頭を下げ依頼してくれた。肺癌の身で海外出張しIOCとの関係を構築」と記し、「一緒に仕事をした私は、評価すべき点も言う。今回、森氏の功績を語らない五輪関係者に絶句」とつづった。” (日刊スポーツ 2021年2月8日付記事から引用)

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” 「五輪追加経費2940億円で合意 都が1200億円、国は710億円、組織委は1030億円を負担」
12月4日、1年延期された東京五輪・パラリンピックの追加経費について、大会組織委員会の森喜朗会長、東京都の小池百合子知事、橋本五輪相が4日、都内で会談し、総額2940億円とすることで合意した。都が1200億円、組織委が1030億円、国が710億円を負担する。これにより、東京大会の開催経費は、昨年末の試算から22%増の1兆6440億円となった。追加経費は、延期に伴う会場費や組織委職員の人件費など大会開催経費、1710億円と新型コロナウイルス対策費の960億円のあわせて2940億円。大会開催経費の追加経費1710億円の分担をめぐっては、延期前に3者が合意していた費用分担の考え方を基本としたうえで、組織委員会が収入を増やしてもなお足らない約150億円については東京都が肩代わりをして補填するとし、東京都は800億円を負担することになった。国はパラリンピックの経費など150億円を拠出する。"
(出典 TOKYO2020)

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東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会は公益財団法人として、潜在的受益者たる都民・国民に対してその目的事業に関して説明責任を負っている(特に財務上の内部留保の減少について)。内部留保が減少した場合、東京都が補填(都税)することになるのだから、「競技施設建設費を数千億円節約」は公益財団法人にそもそも求められる効率的な事業運営の観点から組織として当然行うべきことに過ぎない。

その「べきこと」を会長(森喜朗)の功績にし評価することは、税制優遇や公的補填を受けるに相応しい組織であるか否かのガバナンス(統治)の観点および行政庁による監督の枠組みにはない。したがって、功績を問うのであれば東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会でしかなく、その問う主体は第一に潜在的受益者たる都民・国民である。

ガバナンス(統治)の観点では組織内部の意思決定のプロセスに看過許されざる重大な瑕疵があることが森氏の発言から明らかになった。すなわち、ジェンダーギャップ・女性蔑視・強権限者(=森氏自身)の肯定である。

公益財団法人として本来求められるガバナンス(統治)では全く体をなさない組織の、その瑕疵の代表たる森氏に舛添氏は個人的な功績を認めようとするが、それは翻って、ガバナンス(統治)の観点から遠く外れた、森なる「ドン」の男社会ゆえの功績を褒め上げたことになる。その功績やらはとどのつまり、男社会特有の調整能力=裏の根回しやら忖度(各競技団体の森会長に対する)に基づくことであるから、舛添氏がその調整能力を高く評価すればするほどその社会を肯定するだけのことで、「女性蔑視発言は批判に値するが」が単なる前置きに過ぎないことになる。

調整能力が森氏にしかない、となればもはや東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会そのものが統治不全に陥っているということ。その上にどうしてオリンピック・パラリンピックが開催可能なのか甚だ疑問だ。

(おわり)

追記:
この問題で、スポンサー企業(国内)が一社としてスポンサーから降りないことは、森氏のような絶対的な強権限者に<忖度する>社会であることをあらためて示している。IOCに、スポンサーシップの<一業種=一社原則>の例外を日本だけ認めさせたのも森氏と言われているが、つまり、足抜けし難い一蓮托生・翼賛的な体制を敷いた。事実、スポンサーでもある大手新聞各社は先般の森発言に批判はすれどもスポンサーを降りようとしない。結局、翼賛の先棒担ぎをする矜持なきジャーナリズムに甘んじている。日本独自のスポンサーシップの斯様な体制は、絶対的な強権限者(ドン)に<忖度する=わきまえる>社会に相応しいが、その根っこには性差別主義と男社会が厳然と存在する。それが証拠にドンが何か喋れば、言葉の端々にその考えなり社会が滲み出る。それがいかに時代遅れであり無知蒙昧であるか、それでも「余人をもって代え難い」と言うに至って(世耕参院幹事長)、その考えや社会を必要とする日本国を国際社会に大発信したことになった。〇〇ドンが領袖に跋扈する自民党や財界。「神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く」と国民に<(臣民たるを)わきまえること>を説くような古生代(神代の国)のドンどもをそろそろ箒で吐き捨てないと、日本国が国際社会から吐き出されてしまうだろう。
posted by ihagee at 14:02| 日記

2021年02月07日

「これじゃあ、いつか弾が尽きちまうだろ」



” こんな状態で本当に2021年の東京五輪なんてやるのかな? 最終的にどんな決定になるかは置いといて、そろそろニッポンは「お祭り依存体質」から抜け出したほうがいい。サッカーやラグビーのワールドカップにオリンピック、万博、カジノ誘致と、楽しげな“お祭り”をコンスタントに持ってきて、ドンドン経済のカンフル剤にしないと経済が持たなくなってきてる。これじゃあ、いつか弾が尽きちまうだろ。(ビートたけし) ”
(NEWSポストセブン 2021年2月6日記事から引用)

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” 「日本人:発想の原点=相手、発想方式=微分回路的、時定数=小、ゲイン=大
日本人の発想原点が相手の内にある理由は、発想方式が微分回路的であるけれども、時定数が小さくてほとんどゼロだから、真の微分Tsに近いためであろう。したがって、日本人の発想は相手の初動に振りまわされて自己の持ち味を発揮できないことが多いという結果になる。(中略)突発入力に対しては一瞬だけ衝撃的に反応を示すけれども、あとはしゅんと静まりかえって忘れ去るように見える。たとえば、なにか事件が発生したときの日本の週刊誌を見るがよい。時定数は七日にすぎない。(中略)日本人は漸変入力に対して、一時正しく反応する気配を見せるけれども、なにかスパートしない限り反応が思わしくない。ただし、日本人の平均的特性としてゲイン(増幅度)が大きく、これが反応をかなり実りのあるものにする。ゲインが大きいことは、発想の不安定発散につながるが、近世における日本の最大発散は太平洋戦争の敗戦であろう。これはゲインを抑制すれば防ぎえた現象であった。もっとも、同じゲインが戦後の経済成長に結びつくのであるから、原因と結果は循環小数のようなもので、途中で断ち切ることは不可能である。」(佐貫亦男著『発想のモザイク』(中央公論社)から)

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この「突発入力」に「お祭り依存体質」「カンフル剤」が差し詰め相当する。前世紀の東京オリンピックや1970年の大阪万博などは一般市民ですらそのゲイン(増幅度)を十分感じ取れる経済的成果をもたらした。

ゲインを大きくすれば歪みが増大する(スピーカと同様に音が割れる)。音が割れるとあたかも音圧があるかの迫力を得、その迫力が経済の弾み車として機能していた、真空管の歪みも音として受け入れていたアナログの時代性でもある。数射ちゃ当たる、と今のように弾数を気にするような懐具合の淋しさもなかった。

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分秒を争う経済の時代にあって突発入力のゲインの時定数は今や「七日」もない。東京オリンピック・パラリンピック競技大会は開催延期を決定した去年の時点ですでに時定数が0になっていたのだろう。延期ではなく中止と当事者はその時点で判断すべきだったのかもしれない。

その最大当事者(森喜朗大会組織委員会会長)の先日の性差別発言は、緊急事態宣言下、只でさえザワザワした入力信号ばかりのところでいきなりゲイン比を最大化し聞くに耐えない歪みだらけの轟音を国際社会に撒き散らしたとも言える。しかしオリンピック関係者は誰もそれを止めようとしない。もはや止められる者がいないそうだ。客観的判断ができず確たる目算もなく精神主義に傾き突進するしかない先が「敗戦」は、かつての時代が証明する。

「突発入力」頼みの日本人の発想はたまに大当たりがあるが、当たらなければ食いはぐれることも多い(日本の最低賃金が主要先進7か国=G7中は最低のまま・ジェンダーギャップも同様)。これは巷間言われるような働き方=労働生産性ではなく、明治維新爾来何一つ変わらない我々の発想のパターンに本源的な問題がある。

圧電素子のように始終「突発入力」を繰り返さなければ「衝撃的に反応」しない発想パターンは相手次第ゆえ、入力(刺激)の傾向をつかむ努力に常に全精力を傾ける。IOCのエージェントに過ぎない大会組織委員会と何一つ異見を持たないJOC、開催都市でありながら常に蚊帳の外に置かれる東京都、それら三者の相手(IOC)次第の右往左往ぶりは昨年、IOCから頭ごなしになされたマラソン競技会場の札幌移転決定で鮮明だった。

COVID-19感染対策に於いても、発生当初の点思考(クラスター)に未だ凝り固まって対処療法的にモグラ叩きを続けるばかりで一向に先手を打てず、外国のワクチンに望みをかけるしかない無策を棚に上げて、何を基準に勝ち負けを言うのかも分からない「勝った証(菅首相)」だとか、始まってもいないのにストーリー仕立ての「プロジェクトX(河野ワクチン担当相)」とか、勝鬨や成功譚など大本営的発表が先行する危うさにも現れている(拙稿「ハエ叩きでなぜハエを叩けないのか?」)。

その時々の入力(流行)に、また新たな入力(流行)を求めようとする点で、日本人の思いつき・ひらめき中心のパラパラした前時代的発想で良いのだろうか?その発想のままだと「これじゃあ、いつか弾が尽きちまうだろ」となるは然りだ。

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「突発入力」を始終繰り返して「衝撃的に反応」することを期待するような経済政策では「いつか弾が尽きちまう」とさすがに悟ってか、安倍前政権に引き続き現政権も佐貫氏の分析で言うところの「ゲイン」に比重を置いているようにも思える。ゲイン(出力にかける増幅度)を大きくすることによる歪み=異次元性(金融緩和)=不安定性(二極化社会)を意図し、あるいは、開国黒船よろしく外因を創出し(インバウンド需要・カジノ誘致・TPP等々)、他国の思考回路(特に新自由主義の価値観)に無理やり合わせてガラポン的な結果を期待しようとするが、運を天に任せる賭け事まがいの策ばかりで、発想の原点が自己にないことに変わりがない(明治維新以来今になっても変わらない)。その鉄火場に張られるのは我々の命だ。

大局的な物の見方ができず目先の利害や結果ばかりを追い求めようする我が国(特に政治)。常に経済的果実をもたらすとは限らない科学や学術に経済合理性を政治が求めるようでは(日本学術会議委員任命問題)科学の樹は根付かない(「科学の樹」のないこの国の暗愚)。さしたる考えもなく思いつきと勢いに任せて大股で踏み出し「顛倒しても」それが「ゲイン」というコインの表裏であり、戦争(武力紛争)なる表面が(敗戦を経て)経済成長という裏面となるかも知れない。しかしそれが国民にとって多大な不幸を伴うものであることはこれも歴史が証明するところである。

(おわり)


posted by ihagee at 14:36| 日記

2021年02月04日

「人としてはやりたくない」・活動の真価が今問われている



【ロンドンAFP=時事】英国で、新型コロナウイルスの流行の中、医療従事者らのために多額の寄付を集め国民的英雄となった、退役軍人のトム・ムーアさん(100)が2日、同ウイルスに感染し亡くなった。家族が明らかにした。・・・ムーアさんは、自宅の庭を歩行器を使って歩き、国民保健サービス(NHS)のために多額の寄付金を集めた他、医療従事者への応援歌として「You'll Never Walk Alone」をカバーし、国内の音楽シングルチャートで史上最高齢の1位を獲得した。(2021年2月3日付AFP=時事記事引用

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老体に鞭打ち歩行器で自宅の庭を百往復し浄財を募り、約3280万ポンド(約47億円)の慈善となった。

今夏開催予定とされるオリンピック・パラリンピックに出場を目指すアスリート達は各々の名誉、スポンサー企業や背負う国旗のために、コロナ禍で世界中の多くの人々が困窮しているのも尻目にタイムを競おうとしている。上述のニュースに我が身を照らして恥ずかしくないのだろうか?その鍛えた身体を使って今すべきことは、NOC、スポンサー企業、広告代理店、放送局、競技団体にメダルを以って奉仕することではなかろう。

強行開催は一般市民に投じるべき医療資源を奪い、開催都市を中心に感染拡大の不測なリスクをもたらす。沿道やスタジアムで一般市民が観戦できない競技になろうとも、夢や希望を与えられる、中止にすれば頑張ってきたアスリートが可哀想・・と得手勝手を開催に理由づけるが、民心は開催気運から離れ、「開催すべきではない」と中止世論が大勢を占めている。

「アスリートとしてはやりたいです。人としてはやりたくないです(出場内定の新谷仁美氏)」

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JOCチャリティーオークション

” JOCアスリート委員会は子どもたちの未来のためにチャリティーオークションを開催します。オリンピアン・トップアスリートが、思い入れのある品に直筆のサインを入れて出品。本チャリティーオークションで得られた収益金は、新型コロナウイルス感染症拡大の影響を受けている子どもたち、ジュニア世代のアスリートへの支援に役立てます。子どもたちの未来のために、皆様からのご協力を心からお待ちしております。”

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この際、リアルな開催に代えて、世界各国のNOC(オリンピック委員会)をネットで繋ぎ、新型コロナウイルス感染症の医療資源(特に医療貧国に対する)のための寄付金を各国のアスリートが世界市民に募るという大義の下、バーチャルな大会を東京主体で開催するとなれば、国際社会はその意義を大いに理解するだろう。

IOCは過去の大会でのオリンピック資産を惜しげなくオークションに出品し、アスリートはグッズを売るばかりではなく、ムーアさんのように自宅の庭で体を使って寄付を募る、スポンサー企業から集めた協賛金をスポーツ振興でなく、新型コロナウイルス感染症の医療資源に振り向ける・・そういった個人の名誉ではないアスリート以前、人として行うべきことを示してこそ、オリンピック憲章の掲げる「その行使し得る手段の範囲内で平和を推進する活動(オリンピックムーブメント)」となるのではないか?

新型コロナウイルス感染に国際社会が喘ぐ中、人の道に反する言動を組織の長(IOCバッハ会長・森大会組織委員長)が臆せず率先し「人としてはやりたくない」とアスリートに言わしめるオリンピックにしてしまった。「よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重(オリンピック憲章・根本原則)」を忘れ、ともあれ競技ありき・開催ありきの商業主義に傾いたオリンピックならばもはや存在意義はない。

(おわり)





posted by ihagee at 03:20| 日記