2021年02月14日

組織委はIOCのエージェント



東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会はおよそ40名もの著名人が名誉会長から理事・監事にその名を連ねている(参考:組織委一覧)。

辞任を表明した森会長に代わり、その職の役割なり責任を引き継ぐのはそれらの者であるべきところ(互選で)、外部に適当な人材を求めるようでは組織委自体リスク管理能力がゼロと自ら明かしていることになる。それでは、これらの者たちはひな壇の人形のようなお飾りに過ぎない。森会長の舌禍が組織委のガバナンス欠如、そして後任人事ではリスク管理能力ゼロ、川淵三郎氏の「内定」に絡んで官邸の政治介入を許した(求めたともされる)点では、コンプライアンス違反(オリンピック憲章では建前上、政治は不介入ゆえ)に問われる。つまり、組織として全く体をなしていない。

そもそも「余人を以って代え難い」などと外から言われても平気な組織委だから、所詮、責任など被るのは真っ平御免の余人集団なのかと疑心を抱かざるを得ない。それなりの報酬を得ていながらいざと言う時に「余人」に逃げ込むのならば無責任にも程がある。公益財団法人であるにも関わらずその果たすべき役割なり責任がいかにカネまみれであるかその者たちが森氏の「功績」から知っているからこそ、泥を被りたくないのだろう。

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東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会(TOCOG)は、2020年オリンピック・パラリンピックの開催地が東京に決定したことを受け、同競技大会の準備及び運営に関する事業を行うことを目的に、日本オリンピック委員会と東京都によって一般財団法人として設立され、その後、公益財団法人となった。

開催都市契約の「大会組織委員会の設立」項で、
”開催都市(=東京都)と NOC (=JOC)は、本契約の締結から 5 ヶ月以内に OCOG を設立するものとする。”と定め、
さらに、「本契約の当事者となる OCOG」項で、
”開催都市と NOC は、OCOG 設立後 1 ヶ月以内に、OCOG を本契約に当事者として関与させ、OCOG があたかも本契約の本来の当事者であるかのように OCOG に関わる本契約の条件および条項、ならびに、本契約で定める OCOG のすべての権利、保証、表明、声明、協定、その他のコミットメントおよび義務が、法的に OCOG を拘束するという意味において本契約を OCOG に厳守させ、かつ、その旨を確認する書面を IOC に送付することを約束する。かかる点について、開催都市と NOC は、前述の OCOG による本契約への関与および厳守を達成するため、OCOG に対して、IOC が要求するすべての文書に署名し、IOC に送付するよう義務付け、またこれを行わせるものとする。” と定めている。

甲:IOC、乙: 東京都、JOCの開催都市契約の関係に照らすと、OCOG =”OCOG を本契約に当事者として関与させ、OCOG があたかも本契約の本来の当事者であるかのように” とはすなわち、甲たるIOCの事業の委託先として契約に関わらせ、IOCに代わって行為(事業)主体となることであり、OCOGつまりTOCOGは実質IOCのエージェントである。設立義務があるのは乙であっても、設立されたTOCOGは実質的に甲のエージェントである点、甲たるIOCが優位の片務契約であるばかりか、乙はTOCOG に対して、IOC が要求するすべての文書に署名し、IOC に送付するよう義務付け、またこれを行わせるものとする、という利益相反の契約内容となっている。

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IOCは開催権を東京都に与え場所を借り、TOCOGはIOCに代わって行為(事業)主体となる関係では、TOCOGは実質IOCのエージェントである。エージェントだからIOCの指図には逆らえない。去年のマラソン競技会場の札幌移転決定に置いても、決定主体はIOCでありTOCOGは決定を追認する立場であった(東京都、JOCは蚊帳の外)。このことからも、TOCOGはIOCの手足に過ぎずIOCに先んじた決定権を何ら持たないことは明らかだった。

組織として本来当然求められるガバナンスは、開催都市契約を読めば統治主体はIOCであって、TOCOGに求められていなかったのである。スポンサー契約と協賛金集めがTOCOGの最重要の役割であり、その役割に於いてIOCの期待を100%実現する最適任者が森氏であり、その役回りを続ける限り、組織委はその森氏に逆らわない余人集団であって良かったということだ。

森氏の女性蔑視発言によって図らずもTOCOGのガバナンスに焦点が当たっているが、IOCにとって予期せぬことであることは想像に難くない。オリンピック憲章に掲げる原則や理念といった建前がことさらに前面に出れば、本音である商業主義に迎合しその役割(森氏について言うところの「功績」)を森氏並みに発揮する人物を後任に期待できなくなるからだ。

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普遍的根本的倫理規範の尊重を基盤とするオリンピズムを実現する為の活動(オリンピック・ムーブメント)の普及が平和でより良い世界の構築に貢献することである、とオリンピック憲章は謳う。

しかし、そのオリンピック・ムーブメントの実質は、開催都市契約に照らすと、対外主権(外交権能)についてIOCが行使する、あたかもIOCに宗主権があって開催都市は藩属であるかの関係に基づいているようにも観察できる。ゆえに、ガバナンス(統治権)は今さらTOCOGに求めるのであれば、開催都市契約の内容自体を見直さなければならない(契約当事者である東京都の開催権返上は此処に理由があっても良い)。

商業主義に傾斜するオリンピックとIOCの姿は、オリンピック憲章を聖典教義に例えると、神のためならそのムーブメント(布教活動)に剣(カネを源泉とする力)をも使えるとする十字軍的な覇権主義の名残とも見える。アマチュアリズムに徹し商業主義を排除すれば神の道を説く宣教師に過ぎない集団も、商業主義を取り込めば鎧に身を固めた十字軍になるということ。

中世ヨーロッパのキリスト教世界を中心とした正戦思想を継承する没落貴族集団のアナクロニズムに「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く(神の国発言)」の森氏がいかに相応しいか、いや、森的な神のためと大義を掲げて「わきまえて戴く」ことを国民に強要する空気がいかにIOCにとって好都合か、この一連の騒動で明らかになったのではないだろうか?

開催是非をこの際、開催都市の市民投票で決めることが「わきまえない」民主主義の発露である。主権者たる国民の総意は開催反対であることを示し、森的な人々こそ、そのことを「わきまえて戴く」必要があろう。

(おわり)

追記:
開催権返上と調停」に続く。



posted by ihagee at 10:59| 日記

2021年02月13日

返上そして提案しか立つ瀬がない



今夏開催予定とされるオリンピック・パラリンピック競技大会は森大会組織委員長の舌禍を界に嵐の様相を呈している。IOCの実質エージェントである大会組織委員会であるから、その後任委員長人事に菅政権が露骨に介入すれば、IOCはスポーツへの政治介入を禁じる建前を以って開催権剥奪なるペナルティを課すことも可能なので、現職閣僚や国会議員の登用は難しいだろう(橋本聖子五輪相の名前が一部報道で候補に上がっているが)。それとも今度ばかりは事態収束が先とIOCは目を瞑るのだろうか。

開催前提路線であれば、女性差別発言に端緒した今般の騒動を表向きその問題を糊塗するかの人事(女性の会長職登用)であろうが、現実、開催は限りなく不可能に近い。代表選考も進捗がなくコロナ感染拡大で参加できない国々も想定される中、一部の国々の参加を以って強行開催すればオリンピック憲章に謳う平等主義に反する大会になり、さらに無観客開催は開催の意義(公益性)を問われることである。新型コロナウイルス感染防止対策(プラス熱中症対策)のために確保が必要な医療資源、民間ボランティア、大会組織委員会の内部留保が尽き投入される税金等々、開催のために費やされるヒト・モノ・カネは、わずか数週間足らずの運動会にではなく、我々国民の公衆衛生に投じるべきものであることは言うまでもない。

現実問題を直視すれば、開催中止&敗戦処理(法律・契約面での後始末、組織委員会活動の精査検証)こそ大会組織委員会の役目となる。その役目に相応しい人物の会長職選びであるべきだ。コロナ感染拡大を主因に開催不能を開催都市が判断したとしても国際社会は十分理解するであろう。主因と認め開催を断念すれば開催のための帳尻合わせをする必要もない。新国立競技場、選手村等オリンピック関連施設を感染者の隔離やワクチン接種の場として用いることも可能となる。

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このまま、IOCから開催都市契約の解除および大会開催中止を一方的に通告されることは、事実上、オリンピックを開く資格を剥奪されることでもあり、日本側に何の大義もない無条件降伏となる。たとえ再度開催延期となっても、その先に開催される確証は一つとしてなく、人類の危機たる災害(原発事故)まで踏み台にし(「アンダーコントロール」なる嘘)アスリートや観客の命を危険に曝してまでもオリンピックを政治利用する日本の浅ましい姿だけが浮き上がるばかりでなく、女性差別やジェンダーギャップといった日本社会の暗部が暴かれることになる(それ自体は悪いことではない)。最後の最後まで、無神経・無責任な日本を国際社会に見せたまま、IOCに投了を宣告されて良いのだろうか?

「延期(開催)」は東京都および日本政府の願望であっても確実性を伴わないギャンブルであるゆえ、そのリスクは全て東京都および日本政府が負うと声明しなければ無責任の誹りを免れない。そう仕向けるかに、日本側の願望に応じ「延期(開催)」としたかのIOCの姿勢はそのギャンブルの胴元なりの狡猾ぶりを示している。

他方、コロナ感染拡大を主因とする(開催都市の)開催権返上は国際世論に訴えるだけの大義がある。同時に自己中心的な無謬とバンザイ突撃的(Banzai charge)に敗けているにもかかわらず勝利を叫んで突進する森(神の国)的=前時代的精神主義は森氏の組織委員長辞任とともにホウキで吐き捨てなければならない。1940年東京大会の開催権返上での「これが、君が世界に見せたい日本かね?」を、今再び組織委員会が自問することである。(拙稿「これが、君が世界に見せたい日本かね?」)

1940年東京大会の大義ある返上=撤退はIOCも理解し、当時委員だったアベリー・ブランデージは日本のIOC復帰(1950年)を後押しし、1964年東京大会実現にも尽力した。1940年東京大会開催権返上の大義あればこそ、1964年大会は実現したとも言える。

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現下の国際信義とは、COVID-19禍およびそれに連鎖する世界的経済恐慌に各国と連携しながら専念対応することである。オリンピック開催という国際公約よりも遥かに重大且つ喫緊な信義則であることは明白ゆえに、公約を反故にしてでもこの国際信義に立つことが、開催都市・国家の大義であろう。

なお、戦後の「(開催権を)返上」の事例としては、1976年デンバー大会(アメリカコロラド州・冬季)がある。自然破壊(環境問題)と経済的負債(財政負担)に対する市民運動(市民投票)が「(開催権を)返上」に繋がり、インスブルック(オーストリア)で代替開催された。

大会組織委員会と距離を置き始めた小池都知事の(政治)勘は、開催権返上という一世一代の勝負に出る可能性がある。上述の大義は国際社会は元より都民・国民の大半が理解するから、開催都市の首長でありながら蚊帳の外に置かれ何もせずに森的なギャンブルのリスクをただ背負い込む位ならば、その大義を以って有利なマウントを取ることが自らの総理への道に利すると考えても不思議ではない。その場合、森的な人々を対立軸に旗色鮮明に得意の小泉流の劇場政治を展開するだろう。

悲しいかな、それも他面、強権限者がいなければまともに治らないこの国の民主主義の底浅さを示している。そのような強権限者に頼ることなく、デンバーのように市民運動(市民投票)で開催権を返上することが本筋だろう。さらに、オリンピックのあり方についてもこの際、様々な問題が噴出した我が国であればむしろ主体となって国際社会に問う姿勢が欲しい。開催都市の恒久化(アテネ・オスロなど)などを国際社会に積極提案することこそ、我が国の立つ瀬となる。

(おわり)

posted by ihagee at 07:45| 日記

2021年02月12日

結局は独り相撲



明治の昔、浅草の奥山、両国の広小路、上野の山下など人出の盛り場の地面に円く縄を置いて土俵にして、芸人がたった一人で投げ銭目当てに行った大道芸から「独り相撲」という言葉が生まれたようだ。

二人の力士、呼び出し、行司もみな一人で勤め、「常陸」対「梅」の大取り組みとなると見物客も取り囲んで、「常陸」だ「梅」だとバーチャルな力士の背中に投げ銭をして乗り気になったらしい。芸人はなかなか勝負を付かせないのが奥の手でできるだけ見物客の耳目を引っ張り投げ銭を多く得ようとする。が、次第に銭の入りが悪くなると時分を計って結局一厘でも投げ銭の多い方へ軍配を上げたそうだ。八百長も八百長、滑稽の限りだったそうだ。
(出典:森銑三著「明治東京逸聞史」)
拙稿:朝から晩まで・独り相撲

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森喜朗・東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会会長が辞意を表明、その森氏が後任に川淵三郎氏を事実上使命する、という報道。

俵を割った森氏なぜか立行事に早変わり、川淵氏に軍配を上げ、次に勝負審判(相談役)となって今度は川淵氏に成り代わっている。このように取組進行も判定も全て森氏が行う独り相撲。力士はこの一人以外は全てバーチャルという趣向。見物客の投げ銭の多い方に軍配を上げるが、どのみち一人でやっている投げ銭目当てだから、取り組みは一から十まで八百長。

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トップ一人の独り相撲に背景の松かの如く動かない組織。締込が緩んで恥部まで晒す自分に「残った。ハッキョイ。」と掛け声をかけるが、そのような茶番・八百長に足を止める者もいない。やんやと見物人を集めた時代もあるこの古来からの大道芸も今はすっかり黄昏てしまった。水入りを繰り返してこの夏場所がどうやら最後らしいが、年寄りの冷や水の無理が祟って場所前に「結びにござりまする」となるかもしれない。

(おわり)

追記:
さすがに年寄り同士の禅定では国際社会に説明がつかないと政府が判断したのか、後任人事は一旦白紙になったようだ。人事に介入しないとしていた菅政権が介入すればさらに時の政権の政治利用にオリンピックが使われている構図が際立ち・・と、二進も三進もいかない状況になっている。現職閣僚や与党国会議員をそのトップに据えれば尚更だろう(橋本聖子五輪相を推す声があるが)。さりとて、高円宮妃など皇室メンバーを立てれば、皇室の政治利用の誹りは免れず、また、国民の大多数が開催に反対している中、開催の旗振り役をさせれば、主権者=国民の総意に基づく天皇の地位と相反することになり、皇室全体の存在意義が問われることになる。招致段階での高円宮妃の活動はその悪しき典例であった。此の期に及んでは、中止に向けた「敗戦処理」を行うためのトップ人事であるべきだろう。IOCのバッハ・コーツ(会長・副会長)は共に弁護士であるから、組織委員会も弁護士をトップに据えた布陣でなければ法律契約問題で渡り合うことはできない。オリンピック関連商標の違法ライセンス問題もバッハ・コーツ両氏の知るところであるから(「国際オリンピック委員会への手紙(日本語訳)」)、開催中止となれば日本側の法的瑕疵としてIOC側からその責任を問われるかもしれない(法律面の問題はIOCとは契約上日本政府が保証している)。
posted by ihagee at 10:15| 日記