2021年02月18日
森ファミリーの披露目
東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会(TOCOG)の新会長に橋本聖子氏(参議院議員/比例区)が就任。橋本氏は五輪相を辞任し丸川珠代氏(参議院議員)がその後任となる。なお、橋本氏は自民党党籍から離れるが議員辞職はしないと伝えられる。
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組織委の理事でもない橋本氏をいきなり会長に選ぶこと自体、公益財団法人である東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の定款に違反する(第24条)。のっけからコンプライアンス違反の上に、五輪相から組織委へのスライド人事(菅政権による政治介入)、議員辞職をせずに組織委会長職を務めるなどは、政治的中立を掲げ、組織委にもその中立を導入すると明記するオリンピック憲章に抵触しかねない。
森喜朗前会長の女性蔑視発言に発した会長人事は女性をその後任に据える結果となったが、形ばかり女性を立てて実質は森氏がその裏で政治力を維持することは誰の目にも明らか。その職を固辞したものの、組織委全体で「わきまえて頂く」圧力がかかったのか、選定過程の議論が外側から一切見えず箝口令まで敷かれた。一家主義的な考えに押さえ込まれて「個人」としての固辞を撤回せざるを得なかったのだとすれば、それも「わきまえて頂く」ことになる。強権力者の鶴の一声で選挙もなく決まるところなど、あたかもご託宣で人身御供の類ではないか。これも、臣民ならば「わきまえて頂く・承知して頂く」「神の国」の倣いなのか?民主主義とは程遠い。こんなことが公益財団法人の組織としてのガバナンスなのだろうか?
橋本新会長就任に「軽量人事」ぶりを論うことは、当の橋本氏に対して失礼だと憤る識者もいるが、橋本氏にしろ丸川氏(新五輪相)にしろ「余人を以って代え難い」と言われた後見人の姿が見え隠れするのだからその神輿が軽いと見られても仕方ない。橋本氏にその職責の全てを期待しなくても良いように親でもある後見人が陰で支えることだろう。
今般の川淵氏に始まる人事で森ファミリーによる公益財団(TOCOG)私物化の根深さを思い知った。モリンピックと揶揄されるだけのことはある。しかし、開催中止となったら、組織としてのこれらの杜撰は招致段階での裏金買収疑惑(JOC)と共に違約行為としてIOCから落とし前を付けさせられることになるかもしれない(オリンピック関連商標の違法ライセンス問題も含む)。2016年リオ大会の大会組織委員会会長逮捕にみるように、あまり調子に乗って得手勝手が過ぎると後が怖い。それを知ってか森ファミリーは何が何でも開催しなければならない立場になっている。当初の開催の大義=福島の復興など招致段階での踏み台でしかなく、コロナに打ち勝った証とか言っていたのもいつの間にやら、コロナとは関係なく開催・・などと大義すらなくなっている。内外の世論の大半は公衆衛生上、開催反対(中止)の立場を取るのに、是が非でも開催の組織委と今般の情実的人事は理性を失った騒ぎでしかない。
この狂騒劇も幕引きは近い。世の大半の理性はそう告げている。
(おわり)
posted by ihagee at 19:38| 日記
2021年02月16日
組織委はIOCのエージェント(続き)
OCOG、つまり、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会(TOCOG)とは、いかなる組織なのか、開催都市契約原本(英語)に照らしての報道がない。識者と呼ばれる人々までが想像で物事を述べているきらいがある。
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開催都市契約
甲:IOC、
乙: City (=東京都)、NOC(=JOC)
開催都市契約上、OCOGは署名を行った直接の契約当事者ではないところ、「OCOG を本契約に当事者として関与させ、OCOG があたかも本契約の本来の当事者であるかのように OCOG に関わる本契約の条件および条項、ならびに、本契約で定める OCOG のすべての権利、保証、表明、声明、協定、その他のコミットメントおよび義務が、法的に OCOG を拘束するという意味において本契約をOCOG に厳守させ、かつ、その旨を確認する書面を IOC に送付することを約束する。」と、開催都市契約(Host City Contract)の「3. 本契約の当事者となる OCOG 」にある。
此処で「関与」(させ)は契約の英文では"intervene"に該当するが、この用語は裁判における第三者参加(intervention)に由来する。つまり、裁判の当事者でない第三者が、原告又は被告の側に加わることにより当事者となることを意味する。
開催都市契約「3. 本契約の当事者となる OCOG 」の内容をさらに確認すると「OCOG を本契約に当事者として関与させ」は、英文では "The City and the NOC ... undertake to cause the OCOG to intervene as a party"で、「関与」(させ)の主語はCityとNOC。"undertake" は「引き受ける」の意でshouldに置き換え可能。この場合、should=義務はCityとNOCに課されることになる。開催都市契約締結時にOCOGは設立されていないため、"The City and the NOC ... undertake to cause the OCOG to intervene as a party"となるわけで、「OCOG があたかも本契約の本来の当事者であるかのように」と第三者参加(intervention)と見做すくだりになる。実に巧妙だ。
OCOGの設立主体としての義務に基づき、OCOGを契約に関与させるのはCity、NOCだが、interveneの意味でOCOGが加わる側は、権利⇔義務関係からみれば乙:City、NOCにとって契約の相手方、甲:IOCと理解される(もし中立の当事者ならば "as a neutral party"となるが、そうはなっていない)。この部分が、CityとNOCは「OCOG に対して、IOC が要求するすべての文書に署名し、IOC に送付するよう義務付け、またこれを行わせる」との契約内容を重ねて、OCOG=組織委はIOCの実質エージェントと理解する箇所である。
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OCOGが公益財団法人となって、設立主体たるCityとNOCはOCOGの運用の責任を負う(OCOGと共に連帯責任)。ゆえに設立責任上、CityとNOCはOCOGの組織運用(人事)に関与する立場にある(公益財団法人として準拠する国内法、および開催都市契約の範囲)。今般の森氏の舌禍問題とその後の人事についてである。
他方、NOCはIOCから大会の運営等を委任されるが、大会の実際の運営主体はOCOGで、CityとNOCは「OCOG に対して、IOC が要求するすべての文書に署名し、IOC に送付するよう義務付け、またこれを行わせる」ことから、CityとNOCはOCOGと共に義務者であり、この箇所も権利⇔義務関係からみれば当事者の一方、乙=City,NOCが相手方、甲:IOCに対して義務を負う片務的内容となっている。
"intervene"の意味でOCOGの加わる側はIOCでありながら、その運用に於いてはCity、NOCと共に連帯責任を負うということになる。事業に於いてはIOCの側の運営主体でありながら(IOCの実質エージェント)、組織としての運用に於いては設立主体のCity, NOCの側というOCOGの二面性に加えて、OCOGの内部留保(資金)が枯渇した場合、設立主体(City)としての責任ゆえCity(さらに政府)が補填することになるが、それは結果として我々の税金が使われる。しかし、税の受益/負担の観点でみれば契約の相手方=IOCの事業益となる点、IOCの実質エージェントとしてのOCOGはその資金補填如何では利益相反が生じる可能性がある。巷間選択肢とされている「無観客開催(その場合、沿道での競技応援も規制されるだろう)」は納税者にとって(特に都民)尚更に受益なき負担となるゆえに、OCOGの公益財団法人としての「公益性」が問われる。たとえ無観客開催でも巨額の放送権料をIOCは得る。つまり、我々の税金が結果としてIOCの商業主義に益すること。現下の新型コロナウイルス感染下、公益を「(有観客前提の)通常開催」と「(公衆衛生優先の)開催中止」のいずれに重ねるべきか、開催都市たる東京都は納税者たる市民にその意思を確認・又は市民が率先して意思表示をすべきだろう(後述の1976年デンバー大会=開催権返上のように)。
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拙稿「開催権返上と調停」で述べたように、IOCの開催中止決定(その可能性は高い)は開催権剥奪となり、片務的契約関係に照らすと、一方的に開催都市側が債務を負うことになる(喩えれば、「敗戦・無条件降伏」)。ゆえに、調停(勝ち負けを決めるのではなく,話合いによりお互いが合意すること)を目的とする開催権返上を開催都市である東京都(City)はIOCに対して行うべきと考える。開催都市=東京都(小池都知事)の開催権返上を前提として、その後のIOCの調停では開催都市契約で第三者参加(intervention)と見做されるOCOGがまさに「第三者」として紛争当事者間を仲介する役目を果たしても良い。開催権返上となれば北京五輪も間近に控え、IOCとしても早急に落とし所を図らざるを得ないだろう。そのあたりまで見越して、OCOG会長はその調停実務に能力を発揮できる者が当たるべきだろう。
或いは、「アンダーコントロール」などと大嘘の上に開催決定に貢献したあの者を会長にし開催断念の落とし前をつけさせる(責任を取らせる)ことでも良い(元JOC職員・春日良一氏はこの意味であの者が「良い」と言っているのかもしれない)。マリオにまで化けて散々オリンピックを政治利用した者に今まで一度として取ったことのない「責任」の重さを忖度のない世界で知らしめる上でも「再びみなさまにお会いしましょう(マリオ)」の国際公約を守らせても良い。ヨッシー(森喜朗)の後がマリオなら尚更役順に文句はない。

開催中止の大半の世論(内外)を汲めば、今さら開催に拘り清廉潔白な顔を立てる必要もない。
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1976年デンバー大会は開催権返上事例で、その返上に至る経緯がネットで書面にて公開されている。OCOG(DOC)がその過程でどのような役割を果たしたか記載されているようだ(未だ詳細に中味を見ていないが)。
(おわり)
posted by ihagee at 04:15| 日記
2021年02月14日
開催権返上と調停
” 森氏の女性蔑視発言によって図らずもTOCOGのガバナンスに焦点が当たっているが、IOCにとって予期せぬことであることは想像に難くない。オリンピック憲章に掲げる原則や理念といった建前がことさらに前面に出れば、本音である商業主義に迎合しその役割(森氏について言うところの「功績」)を森氏並みに発揮する人物を後任に期待できなくなるからだ。”
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森氏の川淵氏への禅定と自身の相談役就任構想は森氏なりの「何が何でも開催する」路線の継承であった。
IOCの実質エージェントであるTOCOG、そのトップの本音での暴走に内外の世論は大反発し、事態を収拾するには建前を振りかざして止めるしかIOCとしては立場がない。そこで、IOC→菅政権の介入で内定人事が白紙になったのが真相と思われる。しかし、そうすればTOCOGの最重要の役割であるスポンサー契約(スポンサーの繋ぎ止め)と協賛金集め(開催支援)に森氏並みに「本音」で辣腕を振るう者を後任の会長職に期待できなくなる。それでもIOCは良いと実(本音)を捨て名(建前)を取るのであれば、それはIOC自身、開催を断念することを意味する。
開催都市契約の内容を鑑みれば、捨てる実の後始末は開催都市および日本政府が行うことになる(IOCとの直接ライセンス契約=TOPについてのみIOCがその始末を行う)。TOCOGは事業主体として残務処理(債務整理)の道筋を付けた後に解散。つまり、フルスケールの開催を以ってIOC共々名実を得られなければ(開催中止)、IOCは名を取り、開催都市・政府は花芽の出ない実の始末をするしかない、そういう契約。ゆえに開催都市・政府にとって名実が取れなければそれは一方的な敗戦と残務処理(債務整理)となる。TOCOGの後任会長は「敗戦処理」を担うことになるとの一部メディアの報道に対して、たとえ開催中止となろうと我々の「敗戦」と言うはけしからんと憤る人が多いが所詮そういう結末も伴う契約なのである。
ポツダム宣言を受諾すれば、受諾した側にとってそれは敗戦であるにも関わらず、我々は8月15日を「敗戦記念日」ではなく連合国側の言う「終戦記念日」と呼ぶと同じで、ポツダム宣言にIOCの開催中止決定を重ねれば、その決定を受ける側は無条件降伏=敗戦。初戦勝利の有利な条件で連合国側と早期講和(調停)を締結するという選択を時の政府がしなかった結果でもある。
別の喩えをするならば、胴元がIOCのオリンピックというポーカーの賭けに我々は敗けたに過ぎない。胴元とは常にルールを作る側ゆえ胴元が大損失を被る賭場にはならない。そのルールが開催都市契約とも理解できる。
だからこそ、調停(勝ち負けを決めるのではなく,話合いによりお互いが合意すること)を目的とする開催権返上を開催都市である東京都はIOCに対して行うべきではないのか?返上の理由はコロナウイルス感染拡大(不可抗力)に伴うリスク回避であれば国際世論はその返上に味方し、我々にとって敗けにはならないかもしれない。開催権返上(小池都知事)を前提に、その後調停に持ち込める人物を後任会長に選ぶべきと私は考える。そうであればIOCとしても落とし所を図らざるを得ず、IOCの実質エージェントであるTOCOGが開催都市・政府とIOCとの間に立って調停の役割を果たすことに異を唱えることはないと考える。1940年東京大会、1976年デンバー大会は共に開催都市がその開催権をIOCに返上した事例だが、その時の返上の大義とその後の調停に学ぶところは多い。(拙稿「返上そして提案しか立つ瀬がない」)
(おわり)
posted by ihagee at 19:53| 日記