2021年02月28日

お子様ランチはお好き?



お子様ランチ、というものについて子どもの頃食べた記憶があまりない。あれが食べたい・これが欲しいと子どもが好き勝手に親にせがんでせしめる今とは違って親に絶対的な決定権があった時代だったから、きっとお子様ランチは私の父母の眼鏡には適っていなかったのだろう。他方、祖父祖母が歓心を買おうとこの決定権を孫に委ねるのは今も昔も同じなので、食べたとしてもそういう場面だったのかもしれない。



(お子様ランチの原型 / wikipediaより)


「1930年12月1日に、東京府東京市日本橋にあった三越の食堂部主任であった安藤太郎が数種類の人気メニューを揃えた子供用定食を考案し発売した」(wikipediaより)とあるから、お子様ランチの歴史は古い。

お子様ランチ、の必須アイテムは今も昔も旗であり、その旗は日の丸でなければきまりが悪い。旗日のあの晴れ晴れとした目出度さやウキウキとした気分を小さくともその旗が演出している。子どもが嫌がったり食べるに面倒がる食材は使わず、基本的に甘く食べやすく調理されているから皿に盛られるランチそのものは今も昔もさほど変わっていない。

「子供連れの家族を狙った客寄せの意味が大きく、多種類の料理を盛り付ける手間が掛かり、多くの場合採算割れする」(wikipedia)から、お子様ランチは「お子様」と呼んでいながら、それを提供する側からすれば子どもを顧客にする目的はない。

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さて、お子様ランチは英語で表現すると "Kid's Meal"又は"Kid's Menu"(キッズセット)となる。その意味する食べ物は上述の「お子様ランチ」とは別の系に属する。すなわち、ハンバーガー、チキンナゲットと付け合わせに、ソフトドリンクとカラフルな玩具をつけてバーガーシェフ(Burger Chef)が1973年に発売した子ども向けセットがその言葉の起源ということらしい。マクドナルドのハッピーセットはその系にある。

ファスト(fast)フードはその由来、つまり多民族国家であるアメリカで民族や宗教間の食文化の枠を超えて受け入れ可能な共通項を安価で手間がかからず・短時間(fast)で調理し提供するファストフード企業が子どもを重要な顧客に据えて開発した商品である点で「お子様ランチ」とは目的を異にする。

「人間は12歳までに食べてきたものを一生食べ続ける」(日本マクドナルドの創業者、藤田田氏)

そもそも採算性を期待しない「お子様ランチ」にはこのような目的は課せられていない。

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「一生食べ続ける」と潜在意識から支配するファストフード産業は、ゆえにグローバリズムの見境のない覇権主義に例えられる。これは、「夢と魔法の王国」、「ミッキーと会える場所」といったディズニー商法をアメリカの文化帝国主義の覇権に例えることと同じだろう。ミッキーはアメリカの正義・希望・理想のアイコンであるから、2023年に満了すると言われているミッキーマウスの著作権はアメリカにとっては国家的危難に他ならず、ミッキーの為なら法律まで変えるかの著作権延長法(ソニー・ボノ著作権延長法)は「ミッキーマウス延命法」と揶揄されている。

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ハンバーガーを人間の味覚に刷り込むことで一生涯顧客になるに違いない、というサブリミナルな思想は「お子様ランチ」にはない。「お子様ランチ」に設けられている年齢制限(概ね12才まで)はむしろ子どもの味覚から「卒業」させることを意味している。

子どもにとって味覚や食感は発達段階の感覚器官の働きの一つだから、食する物質に応じての認識は甘いとか辛いとか柔らかいとか硬いといった単純さばかりだが、成長につれてより複雑な知覚心理的な認識に置き換わる。好物を腹いっぱい食べたいという満腹感(食欲)よりも、どう食に向き合うのかといった生き方にも関わるマインド(意識)が芽生え、高次に発展すれば食に対する文化的価値観にもなる。山葵のツンとする辛味は味蕾ではなく脳が喜びと理解するそうだから高次な発展がなければただの痛感でしかないだろう。

その発展段階での主体は個人の能動的な意識であり、ハンバーガーを一生食べ続けるといった他者から刷り込まれた意識ではない。

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お子様ランチはその年齢制限から、他者から味覚を刷り込まれる意識になる前に無事「卒業」となるが、日本の社会全体を見回すとそうとは言えない場合の方が多い。

物心ついた頃からスマートフォンを四六時中撫で回して選択に勤しみ、ピクトグラムにばかり反応し他者の意見に耳を傾けることもなく、複雑なことも二元論的に単純化して白黒とポチッと選択するデジタル社会は年齢制限なきお子様ランチだろう。己の意識をあまり必要としない社会生活(拙稿:<意識なきシステム>で「世界一」となる国)がデジタル社会の背景にさらにある。

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子ども時分の単なる満腹感(食欲)から成長するにつれ食に対する文化的価値観に発展する経緯は、子どもが字を覚えそれがやがて綴り方になる経緯と似ている。

文字を<綴るという行為>は書写・書道として後天的に学ぶ。単に文字の書き順を学び覚えるだけでなく、紙の上での文字の配置・収まりを考えなくてはならない。筆にあって書き損じは一から書き直すことになるのでそれらを先に考えてから筆を紙に置かなければならない。

子どもが字を覚えそれがやがて綴り方になるのも、文字というピクトグラムから「卒業」して筆順における連続的な軌跡から思考や論理を学ぶことでもある(<綴るという行為>)。

綴るという行為自体はペンと紙から、キーボードとディスプレイになっても保たれてきた。私もそういうつもりでブログに自分なりの思考を綴っているが、この<さくらのブログ>のプロバイダーである<さくらインターネット>から2021年3月2日を以ってブログの新規アカウントの作成受付を終了する旨の通知があった。

SNSやインスタグラムのような検索行動主体(情報を手繰る)がメディアの主流となって、ブログなるデジタル時代の<綴る>手段が終わりを迎えているのだろうか?

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新聞・通信社が配信するニュースのほか、映像、雑誌や個人の書き手が執筆する記事など多種多様なニュースを掲載していると言うYahooニュースは、誰も毎日確認していることだろう。

しかし、特に国内ニュースの括りを同じYahooニュースの海外ニュースの括りと比較すると、その国内ニュースはなんともザワザワとしている

そのザワザワさは何だろうか?電車の中吊り広告にあるような週刊誌の煽情的な見出しの羅列と覗き見趣味が合わさったような落ち着きのなさと言ったら良いのか、<綴るという行為>を見出すことができない程、論理の一貫した連続性がその記事からわざと読み取れないような怪文書が集まっているように感じられてならない。

素性や出所がわからないよう活字の切り貼りで世間を騒がせては喜ぶような怪文書は昔は誘拐犯や過激派の独壇場であったが、今は芸能人や識者と呼ばれる人たちの独壇場となって、浅い思考で複雑なこともサラッと皮膚感覚で済ませるような記事がYahooニュース(特に国内ニュース)を占めている。記事の選択と括り方にYahoo側の作為が働いていることは間違いないが(特に酷いのは "乗りものならぬ「乗りものニュース」")、SNSに毛が生えた程度の個人の意見記事をさも公論かに時事に混ぜることはやめてもらいたい。さらに記事毎のコメント欄も不要である。コメント欄は尚のこと怪文書の餌やり場になっている。そういうことこそ行いたければ個人のブログで行うべきことである。

海外(国際)ニュースの括りではさすがに活字の切り貼りも苦労するのか怪文書は少なくザワザワさがない。Googleニュース(日本版)にも多少ザワザワさはあるがYahooニュース程ではなく、ましてや言語・地域を海外に設定して Google Newsを見れば違いは一目瞭然である。

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SNSやインスタグラムといったメディア、それらに毛が生えた程度の芸能人や識者と呼ばれる人たちの怪文書的記事は子どもの歓心を呼ぶような旗や玩具で飾り立てられたお子様ランチやハッピーセットに見える。そのお子様ランチやハッピーセットに大人たちが集まる景色がYahooニュース(特に国内ニュース)にある。共感同調は元より炎上してもお子様たる読者から歓心を最大に得たことになるからステージでうるさ方を向こうに芸を披露するよりも芸能人にはこれ程までに容易いことはないだろう。

もし、意見をぶつけ合いたいのなら旗の大きさや玩具の派手さで競うのでははく、大人らしくディベート(debate)を行うべきで、<綴るという行為>はそういう場にこそ要求される大人の嗜みであろう。

(おわり)

追記:
テレビ・ラジオの報道番組での面白づく本位のバラエティ化が活字メディアにも及んでいるということ。
新聞記事では、政治、経済、社会、文化など各分野の問題を筆者の思想、感情からとらえて論評する記事は「コラム(囲み記事)」として「時事報道」や「時事問題に関する論説」と分ける(新聞業界)。
新聞記事の体裁に馴れた目でYahooニュース(特に国内ニュース)を眺めてザワザワとした感に捉われるのはこの仕分けがない為だろう。軽口程度の「コラム」を囲みなく時事報道に混ぜ込むことで一定のバイアスをかける手法はテレビ・ラジオのバラエティ化した報道番組(例:田崎史郎氏)での常套で、新聞判型の一つであるタブロイドの虚実織り交ぜた扇情的な報道スタイルはまさにそうだが、これがYahooニュース(特に国内ニュース)でのニュースの括り方ともなっている。
posted by ihagee at 13:12| エッセイ

2021年02月26日

わきまえて戴く・聖火リレー



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(1936年8月1日)


最初の聖火リレーは1936年に行われた。ベルリン・オリンピック大会組織委員会の責任者、カール・ディームが発案したこのリレーは1936年7月20日の正午、ギリシャ・オリンピアで採火し7か国(ギリシャ、ブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、チェコスロバキア、オーストリア、ドイツ)総距離3,187キロメートルのルートに、3,330人のランナーの手を経て8月1日、ベルリン・オリンピックスタジアムに到着した。

宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの期待通り、カール・ディーム発案のこの聖火リレーは「ヘレニズム」と国家社会主義を組み合わせることによってアーリア民族の文化的優位性・国家社会主義ドイツ労働者党政権(ヒトラー)の正当性を示す絶好の手段となった。

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”  聖火リレーの方は、ナチスドイツが国威発揚のために政治利用した1936年ベルリン大会で始まったという、特異な誕生の経緯があります。オリンピアで採火された聖火は3千人余のリレーで北上しベルリンに入りましたが、これが後の南欧侵略ルートと重なりました。このため、第2次大戦後の五輪大会では聖火リレーの存続に異論が出ましたが、五輪に花を添え盛り上げる効果を惜しむ声も多く大会ごとに盛んになりました。(中略) 人気の高い聖火・聖火リレーは、政治宣伝の絶好の機会で、五輪開催国が国威発揚(語感は良くないですがそれ自体は当たり前の政治・外交行為です。政権や政策の正統性が問題)に利用したり、逆に、反対派が示威行為を行います。特に2008年北京大会はチベットや人権問題に絡むリレー妨害が世界中で多発し、とうとうIOCは国際ルートを廃止し、採火国ギリシャと開催国の国内のみとしました。その後も地政学的リスクや地球規模課題に絡み政治がスポーツに関与する事例が増えているので、やむを得ないでしょう。バッハIOC会長が今年の年頭の辞で東京大会を念頭にオリンピックの“政治化”への懸念を表明したのもこのためです。(中略)我々が聖火・聖火リレーを含め五輪に惹かれエキサイトする理由としては、教科書的な説明ですが、@運動・遊戯・競う喜び A儀式・信仰 B祝祭・お祭り C豪華ショー・スペクタクル・劇場性等の非日常性にあるとされています。実感としてもそうです。” (「聖火がやって来る −その由来と今後の課題−(望月敏夫氏)」から引用)

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オリンピックに花を添え盛り上げる効果(祝典性)がある聖火リレーは反面、その出自の「特異性」を今も引きずり続けている

平時であれば聖火リレーの祝典性・非日常性は歓迎されるだろう。しかし、今、世界規模の新型コロナウイルス禍という非常時にあって国民の大半が今夏のオリンピック開催に反対する中、聖火リレーに平時なりの祝典性を求めることがいかに非常識であるか(多くは公衆衛生上のリスク面)同様に国民の大半が思うところでもある。

「人気タレントは人が集まらないところ、例えば田んぼを走るしかないんじゃないか(森組織委前会長)」

祝典性を削いでまでもなぜ「走るしかない」のか?そこまでして走らせることに一体何の効果を期待しているのだろうか?全府県で聖火リレーを行うことがあたかも「義務」であるかの空気がこの国を支配している。オリンピックに花を添え盛り上げる効果ではない効果をその空気は暗に求めているのだろうか?

「新型コロナ対策は大事だが、聖火リレーとは次元が違い、結び付けるのは違和感がある。やるかやらないかは組織委員会や国民、世界が決めることであって、知事が決めることではない」(竹下元総務会長)

しかし、国民、世界に「やるかやらないか」を問いかけることなど一切しない。要するに、組織委員会が「やる」と決定したら全府県は異論を排し絶対服従らしい。その組織委員会も会長も全て政権の息がかかっているから、聖火リレーは橋本会長が前任者から引き継いだ森流(「神の国」)の「(国民には)承知して戴く」の一つなのだろう。道理で「知事が決めることではない=わきまえて戴く」と丸山氏(島根県知事)を島根の自称ボスの竹下氏が恫喝まがいに牽制するわけだ。その構図は喩えれば、神の国の御使(竹下氏)が八俣遠呂智(聖火リレー)を退治しようとしている須佐之男命(丸山氏)を退治しようというのだから、その崇める「神」とやらの正当性まで問われる。

祝典性はもはや度外視し、もっぱら政治的動機で聖火リレーを行おうとしていることは誰の目にも明らかだが、「政権や政策の正統性」を表出し異論を排する全体主義を全国津々浦々に広めようとするのなら、それこそ聖火リレーのお里(特異性)が知れるということ。

その動機は「アンダーコントロール」(招致段階)から「コロナに打ち勝った証」に至るまで何かと政治的不純(嘘)が付き纏っている。この国が曲がりなりにも民主主義を標榜するのであれば、我々は安倍=菅と続く「政権や政策の正統性」を総括し、その上で聖火リレーおよびオリパラ開催そのものの是非を問わなければならない。

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ただでさえこの季節花粉症でわきまえが悪いこの鼻に、なんとも芬々と「特異性」が臭う。

(おわり)

posted by ihagee at 08:10| 日記

2021年02月25日

運営には支障がない



” 東京五輪・パラリンピック組織委員会は24日、森喜朗前会長(83)の女性蔑視発言が発端となった一連の“ポスト森騒動”の期間中のボランティア辞退者が約1000人に上ることを明かした。この数字は森氏が失言を発した翌日の今月3日から23日までの20日間の数字。ボランティア全体の約8万人から換算すると約1.25%となる。組織委は「今回の経緯を踏まえ、辞退された方には大変申し訳ない気持ち」とした上で「運営には支障がない」との見解を示している。”(東スポWeb 2021年2月24日付記事引用)

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ボランティア(英: volunteer)とは自らの意志により(公共性の高い活動へ)参加する人のこと、またはその活動のこと(wikipediaより)。組織委はそれを単なる数の多寡としかみていないから「運営には支障がない」などと見解を出す。

ボランティアが戦争に関わると「義勇兵」「志願兵」と呼ばれ、人間ではなく消費されるモノ(肉弾)扱いにすれば、古代ローマ時代の「奴隷兵」にその「ボランティア」の語源は遡る。

本来、個人の「自由意思」であるべきことを、後から補填が利く・埋め合わせができる、と数やモノ同然に扱えば行き着く先は「義務・束縛」になることを「ボランティア」は語源に背負っている。つまり、ボランティアの「自らの意志」もやがて国家から客体化されるとき、国家が人権に対していくらでも条件をつけることができてしまう(小林節慶大名誉教授)」<国家主義>への大転回が始まる。「運営には支障がない」はその客体化の始まりと私は見るが、それは穿った見方なのだろうか?

個人の「自由意思」を国家が客体化すれば、「おやめになりたいというのだったら、新たなボランディアを募集する(二階自民幹事長)」という言葉になる。この発言に《上から目線》《非常に不愉快》《ボランティアなんていくらでもいるっていいたいの?》《ボランティアの心をさらに傷つける発言》《国民を奉公人と考えているのか》・・とネット上で世論が反発したが、<国家主義>への大転回を薄々感じ取った人も多いのではないだろうか?

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「国を維持するためには自分に何ができるか」に基づいて<家族>を単位として国のために何ができるかを<義務>として課す考え方(自民党憲法改正草案起草者・片山さつき議員『私達の基本的な考え方』)がその底に横たわっているということである。(拙稿:<家族主義の美風と大政翼賛>(自民党憲法改正草案第24条第1項)

大政に万人が翼賛する単位が家族であった時代に日本は戦争に突入した。<国家主義><国体・政体>とその為の<家族主義の美風>が、いかなる結果を招いたのかは歴史が示す通りであり、戦後敢えて憲法に「家族の互助を義務として盛り込むこと」をしなかったのは、その過去の反省の上に立つからである。

その反省も忘れ、捨て去った筈の大政翼賛運動をオリンピック開催を以って推進しようとしているのではないか?「わきまえて戴く(森組織委前会長)」は女性差別意識にばかりか「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く」といった民主主義と正反対の全体主義に立脚していることを見逃してはならないだろう。その通り、開催に異論を挟み得ない胸が今にも詰まりそうな重苦しい空気を菅政権は社会全体に充満させている。愛知県知事リコール投票に於いて、投票=自由意志をカネで買う民主主義への破壊行為も、そのリコールを呼びかけた者たちには明らかに「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く」と同じ共通項がある。

開催に一切異論を挟ませない橋本組織委会長、丸川五輪相も明らかにこの輪の中にいる。

「コロナに打ち勝った証(菅首相)」と言うに至っては、大政に万人が翼賛する単位が家族であった時代の勇ましい標語と変わりない。

(おわり)


posted by ihagee at 03:15| 日記