2020年10月18日

テープ録音(その4)



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ビデオ工房トパーズ 記事引用)

ゴムベルトを交換する等して簡単な補修を行ったNATIONALのRQ-402(1968年製造のSolid State)で古い音源(国語研究)を数本再生・デジタル化した。芥川の「羅生門」解説を再生中、またもテープスピードが落ちる現象が発生した。コンデンサーがついに抜けたことは間違いない。「尾羽うち枯れてもNATIONALぞ、ダメ元などと思うなかれ」とレコーダは相変わらず強がるがここでどうやら投了のようだ。まだ使えそうな部品を外し、最寄りのクリーンセンターに野辺送りとすることにした。

私がレコーダで再生したいテープは音声であって音楽ではなく、またモノーラルゆえにオーディオ用のオープンリール録再機は襷に長しとなる。音楽を聴く機材環境はすでにあるのでポータブルの再生機があれば足りるということ。いずれにしても中古品から代替を探さなければならない。

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「回りもの」への関心は私などアナログ世代の共通項と言えるだろう。

電話のダイヤル、アナログレコード・ターンテーブル、時計の針、映写機のリール、テープレコーダ、電力メータ、遊園地のティーカップでは自分が回る。

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(「回りもの」の代表格:観覧車)

撮影場所:川越(埼玉)丸広百貨店の屋上、撮影日:2019年8月31日(屋上遊園地閉園二日前)
カメラ:Zeiss Ikon (VEB) Tenax 1 / Tessar 37.5mm F/3.5(Yフィルター装着), フィルム:Kodak Ektar100

「この鏡には、なにやら句が印刷されておるようだがわしには見えん。君読んでくれないか?」俳句を趣味とする老先生が私にこう宣った。その先生が購読している文芸誌が或る日からCD媒体となった今から四半世紀以上前の笑い話だが、軌道(音溝)が視認できないCDはこの先生が言うように鏡と表向き大差がない。ゆえに、私なりの分類では爾来、CD(コンパクトディスク)はデジタル云々以前にモノとして「回りもの」ではない。

そういう何かとやたらクルクル「回る」ものに取り巻かれていた時代は過去となり、今は、何事につけ、回る、つまり、連続する必要が少なくなった。

デジタル(離散化)の非連続性は、たとえば時計にあっては数値での時刻表示となる。しかし、運針の方が時間の経過を把握し易い。デジタル時代にあっても車のスピードメータはアナログ表示(運針)が大勢を占めるのもむべなるかな、今現在に至る経過(プロセス)や軌跡(道筋)を物理的に感覚を以って認識できないデジタルへの心理的不安があるのだろう。「回る」はどこかしら安心感と直結している。

これは<綴るという行為>にも言える。<綴るという行為=筆順>はデジタルな日常生活において要求されることはない。脳とペン先が最短距離で直結した綴るという連続的な行為が、決められたルールに従って指先を動かすという遠回りで非連続な<変換作業>に切り替わったのは日本語ワープロが普及し始めた頃であり、スマホを四六時中撫で回す今はその作業は<変換>から皮膚感覚・条件反射的にポチッと<いいね>とクリックして済ませる<選択>へとさらに単純化しつつある。SNSとかラインのメッセージは、絵文字(ピクトグラム)共々、瞬間の情意を伝えるばかりの畳語のやりとりで、脳よりも脊髄に繋がり易い。斟酌論考の軌跡の一つとしてない思いつきばかりで、他者の意見に耳を傾けることができないデジタル時代の文盲は斯くして生まれる。

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国語研究の古いテープ(1964年)は当時の高校生向け学習教材であるが、そこに記録された学者の解説はいずれも作家の<綴るという行為>を学生に追体験させ、且つ、ただ作品を理解するだけではなく作品の批評までも促している。大人であっても傾聴に十分値する内容ゆえに、変換や選択といった作業ばかりで長いこと働いていなかった脳領域がこれで多少は活性化するのではないかと期待するところである。

(おわり)

タグ:RQ-402
posted by ihagee at 14:18| 古写真・映像

伊豆の踊り子・川端康成





(RQ-705で再録)


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(・・・)あくる朝の九時過ぎに、もう男が私の宿に訪ねて来た。起きたばかりの私は彼を誘って湯に行った。美しく晴れ渡った南伊豆の小春日和で、水かさの増した小川が湯殿の下に暖く日を受けていた。自分にも昨夜の悩ましさが夢のように感じられるのだったが、私は男に言ってみた。

「昨夜はだいぶ遅くまでにぎやかでしたね。」
「なあに。ー聞こえましたか。」
「聞こえましたとも。」
「この土地の人なんですよ。土地の人はばか騒ぎをするばかりで、どうもおもしろくありません。」

彼が余りに何げないふうなので、私は黙ってしまった。

「向こうのお湯にあいつらが来ています。ーほれ、こちらを見つけたと見えて笑っていやがる。」

彼に指ざされて、私は川向こうの共同湯のほうを見た。湯気の中に七八人の裸體がぽんやり浮かんでいた。

ほの暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場のとっぱなに川岸へ飛びおりそうな格好で立ち、両手を一ぱいに伸ばして何か叫んでいる。手拭もない真裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私たちを見つけ喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先きで背いっぱいに伸び上がるほどに子供なんだ。私は朗らかな喜びでことこと笑い続けた。頭がぬぐわれたように澄んで来た。微笑がいつまでもとまらなかった。

踊子の髪が豊か過ぎるので、十七八に見えていたのだ。その上娘盛りのように装わせてあるので、私はとんでもない思い違いをしていたのだ。(・・・)

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伊豆の踊り子川端康成
解説者:立教大学教授 長野嘗一
朗読:谷沢裕之 他(劇団三十人会)
音源:NHK録音教材 国語研究(対象者:高校生)1964年

(おわり)


posted by ihagee at 00:00| 国語研究