2020年10月07日

「時代の要請」で進む人間の退化



スマートフォンを四六時中撫で回して<選択>に勤しむことで、人間はどんどん頭脳を使わなくなる。ピクトグラムにばかり反応するデジタル時代の文盲が増え、他者の意見に耳を傾けることもなく、複雑なことも二元論的に単純化して白黒と<選択>する社会から、法秩序の連続性すら簡単に断ち切る首相が生まれるのである。斟酌論考の軌跡のない出所不明の怪文書的政治に「この道しかない」と彼は言うが、<綴るという行為>を示さずにその先に道を見る事も究めることもできないのである。(拙稿 <綴るという行為>から)

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”平井卓也デジタル改革相は6日の記者会見で、小中学校で使う教科書のデジタル化を進める考えを示した。2日に河野太郎行政改革・規制改革相と萩生田光一文部科学相との3者協議で提案した。萩生田氏から前向きに検討する趣旨の発言があったと説明した。平井氏は「教科書を何冊も抱えるよりパソコン1台で移動した方がいい」と訴えた。萩生田氏も「時代の要請だという共通認識を持っていた」という。”
(日本経済新聞電子版 2020年10月6日付より引用)

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教科書とは教育の手段、手段ゆえに代替可能、しかし、そのデジタルトランスフォーメーション(Digital transformation; DX)は経済市場の新たな価値観(企業価値)に他ならない。逆にたどると、紙媒体の教科書のデジタル化は「時代の要請」=DX経済の要請であるが、必ずしも一義に教育現場の要請ではないということである。

論考の軌跡はたとえ落書きであっても紙の教科書なら幾らでも残すことができる。各人各様に扱いが自在なのも紙だからであって、その自在性についてデジタルは未だギミックの域を出ない。情報を検索・参照する点でデジタルにメリットがあるが、紙は紙なりに思考の連続性を物理的に辿ることができる。

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買いたてのまっさらな辞書は早く汚せ、唾を付け頁の端を折ったりして手垢が付くほど不思議に使い心地が良くなり汚した分だけ頭に馴染むとは恩師の言葉だったが、五感の働きも何かを学ぶには必要ということ。学生時代、英語の辞書を覚えた際から引き裂いて食べたのは大叔父だった。二度と目にしないという覚悟に紙は応じ、五感どころか胃袋も学びに貢献したということになる。デジタル辞書ではヤギすらも食べない。

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「猫背で歩くな」「犬食いするな」と人間たる仕草の躾と共に、教科書は机に立てて読め、とも言われたものだ。


教科書を立てて授業を行う学校(現在)


背が曲がる・目が悪くなるなど、脊柱側彎症は小学校の身体測定で検査されるほど随分昔から社会問題になっていた。都市の機能的発達に伴い人間が作り出した環境がそこに暮らす生物としての人間を逆に作り変えていく、その結果が学童に脊柱側彎症という形で顕著に現れる。(拙稿「石膏の中の子供」)


(教科書代わりにタブレットを授業に活用)


「パソコン1台で移動した方がいい」の「パソコン」はタブレット端末のことだろうから、机に寝かせて凝視すれば背が曲がり目も悪くなる。脊柱側彎症に加えてさらに首の頚椎まで異常をきたし(所謂「スマホ首」)、自律神経症を含むさまざまな症状を随伴し生涯に亘って病気を抱える可能性がある。

DXなる企業価値の追求の場を学校にまで貪欲に求めれば、心身の発達過程にある学童の身体に深刻な障害を与えかねないことすら想像しない。そもそも、文科相ではなくデジタル改革相が教科書デジタル化の口火を切るところなど(「時代の要請」などと教育ではなく経済の視点で認識を共にする文科相は論外)、コロナウイルス対策で所轄の厚労相よりも経済再生担当相がしゃしゃり出ることと同じく、何事についても安倍→菅政権では金儲けの話が先立つようだ。

(おわり)


posted by ihagee at 18:09| 日記