2020年10月05日

「科学の樹」のないこの国の暗愚・続き2



何故ドイツでは<哲学>が<科学=Science>というアカデミックな研究科目(学問領域)と同体に発展してきたのか?それは、時として対立する宗教から離脱し<科学=Science>の発展を推し進めるため基礎付けとして<哲学>が重要とされたからだろう。「それでも地球は動く」と宗教裁判でガリレオが呟いたように、宗教裁判にかけられながらも命がけで戦ってきた<科学=Science>の歴史が背景にあり、その宗教から離れるためには<哲学>を必要としたのである。

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("近代科学の礎となったグーテンベルク印刷機" 於ドイツ博物館/Deutsches Museum・筆者撮影)

デカルトは「根は哲学、幹が自然学、枝は諸学であり、医学、工学、道徳の3本の枝に果実が実る、とくに完全な知としての道徳の枝に実る」と述べている。

斯様な背景のないわが国では、<科学=Science>の発展に哲学は根としての関係を持たなかった。根や幹への関心よりも枝に実る果実にばかり<科学技術>を語ってきたのである。
(拙稿「科学の樹」のないこの国の暗愚 から)

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言葉と論理に於いて法は哲学とその元は一系である。「それでも地球は動く」と宗教裁判でガリレオが呟いたように、宗教裁判(異端審問)にかけられながらも命がけで戦ってきた<科学=Science>の歴史が背景にあり、その宗教から離れるためには<哲学>を必要とした同じく、「わが国の科学者の内外に対する代表機関」であり内外の科学の体系を為す日本学術会議の自律性は同会議の推薦に基づき指名された者の任命権を内閣総理大臣は有するが、任命拒否権はないとする歴史的法解釈によって担保されてきた。

「科学の成長には一定の風土と環境が必要であり、生き物である(エルヴィン・フォン・ベルツ)」の「生き物」の息の根を止める所業に菅政権は打って出た。日本学術会議が新会員に推薦した6人の任命を菅義偉首相が拒否した問題である。

任命拒否権があるとする解釈は存在しない。係る解釈がもし存在するのなら、憲法6条1項により内閣総理大臣の任命権がある天皇には、同時に任命拒否権もあるということになる。

任命拒否されたくなかったら日本学術会議は民営化すれば良いなどと暴論を吐く識者?(高橋洋一)などもいるが、国会の指名による内閣総理大臣が天皇から任命を拒否されたくなければ立法府たる国会を民営化すれば良いという解釈にもなる。よほどアナーキーな思想の持ち主なのかそれとも単に「科学の果実を切り売りする人」なのだろう。産業化・工業化に寄与する<技術=Technology>にのみ価値を認め(たとえば、日本学術会議がその学問的良心に拠って寄与を拒む軍事技術)、その価値観と袂を連ねようとしない科学者は排除してしまえ・学問的良心など捨ててしまえ、という「科学の成立と本質について誤解している(ベルツ)」者であることは間違いない。

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憲法23条が保障する学問の自由には、「個人が国家から介入を受けずに学問ができること」と、「公私を問わず研究職や学術機関が、政治的な介入を受けず自律すること」の二つが含まれるが学識であり、後者は「科学の成立と本質」を正しく理解することでもある。自律への政治介入はガリレオの時代の中世暗黒国家に引き戻すかの政治の暗愚に他ならない。

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新島襄の建学の精神たる「良心」教育は自治自立の精神・個の確立を涵養するものであった(同志社大学)。この心の開明が反政府運動に繋がることを恐れ、その芽を摘み取るために明治政府は「修身」教育を諸科目の首位に置き、国体(政体)に傅く臣民思想を徹底するため、帝国憲法の発布の翌年に「教育に関する勅語」(「教育勅語」)を煥発し、「自治自立」なる建学の精神に政治が介入し一擲してしまった過去の歴史がある。
(拙稿「我々に再び、踏絵を踏まさせるのか(教育勅語について)」)

日本学術会議が新会員に推薦した6人の任命を菅義偉首相が拒否した問題は任命権を盾に、政治権力に科学を屈従させようとする今様の踏絵である。

「学問的実績の高い学者が学問的良心に従って政権からの提案に異を唱えたら権力を使って不利益処分を下す。これは、現代の踏み絵であり、中世の暗黒国家のようである(小林節 慶応大名誉教授)」

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「科学の樹」のないこの国の暗愚はついに「貧すれば鈍す」「窮すれば濫す」に至り、その通り愚鈍且つ学問的良心を理解し得ない者が立て続けに首相になることに象徴されている。

国事行為において「認証」「接受」という形式的・儀礼的行為しか認められていないことを以って、権威を象徴する個人=君主ではないと明確に定められている天皇。他方、天皇にはないが自分にだけは任命拒否権があるとする者。この者は権威を象徴し且つ権力を備えた君主に他ならない

この国の権威と権力の二重構造を一手に具備した者こそ、「学問の自由」から奪い取った自律を我が身のものとするかに「憲法に縛られない」などと絶対者を自ら名乗ることもできるわけである。

「総理大臣に任命権があるのを見せつけたかったからである」などとその所業をあたかも「この紋所が目に入らぬか。 ここにおわす御方を、どなたと心得る。」ばりに痛快と茶化す識者?(山本一郎)まで現れるが、痛快さは時代劇の中だけにしてもらいたい(拙稿「水戸黄門って先の中納言と先の副将軍とどっちなんですか?」)。

たとえ「虚妄」であっても戦後民主主義の「虚妄」に賭ける(丸山真男)ことが民主主義を日本社会に根づかせるための思想的営為であろう。一々学ぶのは時間がかかり難渋であり無益だと<哲学>に拠って立つ<科学=Science>の精神(「科学の樹」)を知ろうとしなかった、その思想的営為を軽んじたがゆえに科学が何たるかこの国に根づかなかったことは、民主主義とは逆向きに世の中が転回することと一脈通じるものがある。

(おわり)

追記:

日本学術会議の在り方にこそ問題がある、問題がある組織の問題のある者への推薦に対して、当然任命を拒否する権利が菅首相にはある、と任命拒否を自己正当化するかのような空気を菅政権は得意とするネット工作で世の中に蔓延させようとしているようだ。「中共と結託している(共謀罪法案に被推薦者が反対したことについて)」「日本が戦争に負ければ良いと思っている(軍事技術開発を拒否する学術会議の姿勢について)」などとネトウヨの脊髄反射に期待するような下世話な名無しのコメントがヤフコメなどで溢れている。

問題の所在は任命拒否の法的根拠および正当な理由の開示を一切行わない菅首相にあるにも関わらず、日本学術会議にこそ問題があると問題の所在を転嫁する。被推薦者の推薦に値するとされる学術研究に他者の論文の盗用など公序良俗に反する事実が認められる・・といった場合がたとえあったとしても、それを律するのも日本学術会議であって(「自律すること」)、他律が菅首相にあるわけではない。


posted by ihagee at 09:07| 政治