2019年01月06日

新橋三丁目界隈・1960年初め



引き続き父が1960年の初め頃に撮影したフィルム。EPSON GT-X980でフィルムスキャンした。

新橋三丁目界隈で、「おそば能登治」と看板が見える。この店は建物こそ変わったが、現在も同所にある(芝新橋 おそば 能登治)。写真から伝わる庶民の暮らしの息づかいも今はこの老舗のそばの味わいだけになってしまった。

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(おわり)


posted by ihagee at 12:01| 古写真

2019年01月05日

新橋電停・1960年初め



来日早々、横浜=新橋間の汽車の車窓越しにモースは偶然貝塚を見つけた(『「墟」と「塚」』)。この横浜=新橋間こそ、日本の鉄道開業の始まりでもある(明治5年9月12日)。モースが乗車したのは明治10年だから開業して間もない頃ということになる。



この絵と同じ陸蒸気(おかじょうき)に乗ったのだろう。

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さて、それから5年後の明治15年に、新橋=日本橋間に日本初の民間資本による鉄道会社である東京馬車鉄道が開業した。東京市内の路面電車は3つの民間会社によって別々に電化整備されたが、後に東京市(当時)に一括して営業が引き継がれ市電となる。その最初の区間も新橋に始まった。新橋は鉄道史・市電(都電)史の双方において出発点となる。

その新橋電停辺りを父が1960年の初め頃に撮影したフィルムを元にサイアノタイプ・プリントを作成(引き伸ばし機:Lucky II-C (Fujinar-E75mm F4.5)、印画紙:vif Art (B5 H.P. surface) )。系統番号 6 番の都電(新橋=溜池=霞町=青山六丁目=渋谷駅前)が写り込んでいる。伊藤園のティーパックのジャスミン茶を二袋小鍋で煮出して、濃い目のトーニングを施した。レトロな雰囲気を表すことができた。

ブロク記事(「銀座8丁目全線座・1960年初め」)で紹介した写真と同じストリップにあった一コマ。当時、父は清水建設で銀行など商業ビルの設計にたずさわっていたので、カメラの焦点は三和銀行にあるように思われる。前景の都電や時計に目を遣る通行人を撮ろうとしたわけではなさそうだ。当時、1964年(昭和39年)東京オリンピック大会に向けて都心は再開発の槌音が響き始めていた(拙稿『「五輪」という破壊』)。この系統の溜池から先では首都高の高架の建設が始まった頃かもしれない。

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(Fujinar-E75mmF4.5で四時間焼き付け・水洗オキシドール漬後、ジャスミン茶でトーニング)

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それとは別の正光堂の包袋に入っていたストリップに1950年代に出張先の福岡・小倉で父が撮影したと思われる写真が収まっていた。同様に銀行の写真である。

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(三井銀行小倉支店か?)

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(山口銀行福岡支店)

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(小倉。鍋を片手に夕餉の材料でも買いに行くのか?)

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(小倉駅から門司港を結ぶ、魚町銀店街と思われる。)

魚町銀店街は日本初のアーケード商店街として話題になった。小倉ゑびす祭で雨に降られる度に井筒屋百貨店に客が飛び込んでは他の商店が商売にならぬと商店主らが公道に屋根をかけることを思いついたということらしい。今となっては当たり前のアーケード商店街だが、将来への先見性を感じ取って父も訪れたのかもしれない。

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安全信用を建物に化体するかに、重厚で厳しい造りがこの時代の銀行の佇まいである。カネを扱う場所ゆえにその建築が安普請であろう筈もなく、さぞや建設会社も仕事の甲斐があったことだろう。私の子供時代、このような銀行はどこにもあったが、冷んやりと薄暗い行内に子供ながら畏まらせる感じを覚え、ここでは静かにするものだと親に諭されなくともそれとなく判ったものだった。

(おわり)


posted by ihagee at 09:02| 古写真

2019年01月04日

「墟」と「塚」



「1877年(明治10年)6月17日に横浜に上陸したアメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースが、6月19日に横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてから直ぐの崖に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見し、政府の許可を得た上9月16日に発掘調査を行った。助手ら3人とともに土器、骨器、獣骨を発見し、9月29日にも訪れ、10月9日から本格的な発掘を行った。1955年(昭和30年)3月24日には、国の史跡に指定された。モースらの発掘した貝殻、土器、土偶、石斧、石鏃、鹿・鯨の骨片、人骨片などの出土品は東京大学に保管されており、1975年(昭和50年)に全て国の重要文化財に指定されている。」(wikipedia 『大森貝塚・概要』より)

考古学なる学問がなかった時代、この発見を契機にモースら御雇い外国人教授によって、日本に同学問の基礎と体系がもたらされた。

この有名な場所に因む石碑は二つ存在する。一つは品川区の「大森貝塚」碑(昭和4年建立)、もう一つは大田区の「大森貝墟」碑(昭和5年建立)である。





モースが発見場所について詳述を残さなかったことなどから、当初の発掘地点について長い間、品川区説と大田区説の2つが存在したようだ。しかし、その後の歴史考証や再発掘によってモースが調査したのは品川区側であることが判明し、品川区の「大森貝塚」碑を中心に遺跡一帯が整備され現在、大森貝塚遺跡庭園となっている。

つまり、大田区の「大森貝墟」碑の場所は口伝であって実際の場所ではなかったということである。

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これら二つの碑を比べると面白いことが判る。

品川区のものは横書きで「大森貝墟」と碑面、上部に縄文後期の深鉢をあしらい、碑額には「 The Site of the Omori Mounds discovered by Professor Edward S.Morse 」とある。他方、大田区のものは高さ2mを越える板碑に「大森貝墟」と碑面、「我国最初之発見 大森貝墟 理学博士佐々木忠次郎書・明治十年モース先生の発見に係り門下生生理学博士佐々木忠次郎松浦佐用彦両氏と共に発掘研究せし顕著なる遺跡也昭和五年四月建立」と碑文が刻まれている。

品川区の碑は英語で簡潔にモース博士の偉業を讃え、大田区の碑はモースよりも発掘研究した佐々木・松浦両氏を顕彰する趣きとなっている。

また、碑面を比較すると、品川区の碑は「大森貝塚」、大田区の碑は「大森貝墟」といったように、「貝塚(かいづか)」と「貝墟(かいきょ)」と異なる文字が各々刻まれている。

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「墟」なる文字、土へんに「虛」。跡・荒れ果てたところ=「廃墟」の意味で使われることが多いが、第二義としては「大きな丘」の意味もある。「大きな」に当たるのは「虛」の字の上部分が「虎」のそれと共通していることから由来し、「丘」に当たるのは「虛」の字の下部分だが、これは象形文字で周囲が高く中央が窪んだ丘の意味らしい。縁が高い中国古代の器物を「鼎」と言うが、この字とどことなく似ている。ちなみに「虛」は旧漢字だが、これが「墟」の正字となっている。

他方、「塚」なる文字、「築(つ)く」に語源があり、高く築いた場所を指し、人工的に土を丘状に盛った場所をいう。

「崖に貝殻が積み重なっている」とモースが横浜=新橋間の車窓越しに視認できたのは、古代人が積み重ねた「塚」であったからだからで、荒れた窪地の「墟」ではなかった筈だ。その後の考証で大田区の「大森貝墟」碑がその場所でなかったと判明したが、そもそも碑面の「墟」はモースが発見した土地の性状を表しておらず、「塚」の方が正しいということだろう。漢字というのは必ずしも異字同義とはならない。

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「虛」が旧字体を正字として使われるのは「墟」の場合であるが、「虛」そのものは新字体「虚」と同義で「虚」の熟語は例えば、「虚妄」「虚仮」などとあまり良い意味にならない。前者は偽り、後者は心や行為が真実でないことを意味するといった具合である。土へんと「虛」なり「虚」(こちらは当て字とされている)を組み合わせたところで、土地の性状を意味するだけであるが、これが口へんと組み合わさると心の性状を意味する「嘘」となる。

モースが調査した場所について、長い間人々の間で偽りが伝わっていたのも、碑面に「墟」とある「大森貝墟」碑の方である。土が口に代わっていつしか、真実でないことが語られていたということであろう。

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この「墟」なる碑が建立された辺りから日本は軍国化が急速に進み、国のため、天皇陛下のために戦って死んだ軍人や軍属の「忠義・忠魂」を顕彰する碑が日本中に建立されることになる。国のため、天皇陛下のために死んだ者だけが顕彰され、戦禍に巻き込まれ亡くなったその他数知れぬ人々の霊を弔い慰めることすらしなかったあの時代の国の在り方が見えてくるのである。

時代が下って今。この国の総理大臣が深々と首を垂れるのはあの軍国時代の大義(国家護持)を象徴する靖国であっても、等しく戦没者を慰霊する千鳥ヶ淵ではない。

軍人・軍属でないあの時代の一般市民・多くの国民(そして我々子孫)にとって靖国とは本来「墟」である。ここには被祀者の遺骨は一つとしてない。貝がその下に埋まっていない件の「貝墟」と同じである。他方、千鳥ヶ淵には遺族に引き渡すことのできなかった戦没者の遺骨が安置されている。天皇陛下が深々と首を垂れ不戦を誓う千鳥ヶ淵の戦没者墓苑こそ、その深い心を我々も共有する「處」である。「處」とは台をおりて足を止め落ち着く場所をいう。不戦の誓いを天皇陛下と共に我々国民が高く築いてきた「塚」でもある。

靖国に神道の神は居ない。ゆえに神道を奉じる今上天皇ですら一度として靖国に詣でることはなかった。人間界の都合によって人霊を神霊に化して敬う為の旧日本帝国下では軍の神社であり、したがって国家の機関であったことを我々は忘れてはならない。

2018年(平成30年)6月20日、靖国神社の最上位の責任者である小堀邦夫宮司(当時)が神社内の定例会議で「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ」「はっきり言えば、今上陛下は靖国神社をつぶそうとしてるんだよ」など今上天皇や皇太子夫妻を批判する発言を行ったのは記憶に新しい。旧日本帝国下では軍の神社であり、したがって国家の機関であった靖国の復権待望がその発言の裏にあるのだろう。天皇陛下の旅によって、靖国が「墟」となるのは然るべきことである。その懸命な旅に我々は癒されると共に不戦の決意を新たにするのであれば、それこそ天皇陛下の願いに叶うことでもある。平和憲法の象徴たる天皇が平和の尊さを説き憲法の平和主義を願いとして表明することが、けしからんと靖国が憤るのであれば尚更、靖国が「墟」となるのは然るべきことだと我々国民は思わなくてはならない。

しかし、この国の総理大臣は今上天皇の慰霊の旅に冷淡且つ無関心であった。その旅に反目するかに靖国参りを繰り返した。巨大な自然災害に国民が見舞われる只中にあっても酒宴に興じていた。時代の節目ともなる正月三が日、天皇陛下は最後の務めを果たした。他方、総理大臣はゴルフだ映画だと遊び呆けていた。こんな総理大臣の口を経ると「墟」は「嘘」に変わり、「嘘」は「墟」をさらにもたらす。この人物の心の性状がそのまま国政に反映し、真実というものがなくなった。口先三寸、ファクトまでさらっと改ざんしてしまう。そうして、気が付けば、跡・荒れ果てたところ=「廃墟」とこの国はなりかねない。

同じ人間でもどうしてこんなにも違うのだろうか?真実を語っているのはどちらか、我々はそろそろ見極めなければならない。

(おわり)

posted by ihagee at 19:29| 政治