2019年01月31日

試し書きのススメ



「ボールペンとか買いに行った時は、アベノミクス失敗と試し書きしていたけど、 これからはアベノミクス偽装と書く事にする。ルビも付ける。」

Twitterでの誰かのつぶやき。成る程・・・



政権批判をしたためた葉書を街の一角にこっそり置き残す、ナチスに抵抗した夫婦の話(映画『ヒトラーへの285枚の葉書』/ 原作:小説『ベルリンに一人死す』)。



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息苦しい社会になりつつある。筆記具の自由な試し書きとて、ある日突然、営業妨害とか迷惑防止条例違反とか公序良俗違反とか、適当な理屈をつけて上から禁止されるかもしれない。でも、もしそうなれば、ほんの少し権力批判をしただけで命まで奪われたあの時代にわれわれは引き戻されることだろう。

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野党5党が国会内で開いた政府(厚労省、総務省など)からのヒアリングの席で、2018年の実質賃金の伸び率はマイナスであることを昨日(30日)認めた(屋敷次郎・大臣官房参事官)。アベノミクスの数字上の実績は、不正なデータに基づくものだったと。


(実質賃金の伸び率(右端の数字)を示した一覧表。ことごとく マイナス(赤字)となっている。=明石弁護士作成 / 田中龍作ジャーナルより)

アベノミクス成功と安倍首相は大喧伝していたが、実際は実質賃金はマイナスで、その "成功" は政府基幹統計データを弄んだ "まやかし" であったことが判った。<民の竈(かまど)><民の炊煙(すいえん)>という言葉がある。庶民のかまどの煙の上がりを心ある為政者は見るものだが、この国の為政者は数字しかみない。それも不正に操作された数字を。われわれ庶民が肌身で感じる生活実感がやはり正しかった。『経済成長感じない人は「よほど運がない」(麻生財務相)』などではなかった(拙稿「運・不運でかたづけるなら神仏の世界」)。

それでもなお、「アベノミクスは今も進化し続けている」と安倍首相は国会で苦しい答弁。「勝った勝った」の大本営。気がついたら負けていた。嗚呼!


(信州自由古書園 on Twitterより)

アベノミクス偽装、は事実。試し書きに差別・誹謗中傷・嘘デタラメはNGだが、厚労省のお墨付きの事実ならば良いだろう。堂々とアベノミクス偽装とか、実質賃金マイナスとか、試し書きをしましょう。あくまでもお店の迷惑にならない程度にね。こうして、お年寄りなど情報弱者や政治に疎い若者たちにも「これって何?」と気付かせることができるかもしれない。

(おわり)


posted by ihagee at 03:17| 日記

愛子と愛国



「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」と、昨日(1月28日)に召集された通常国会施政方針演説で、安倍首相は明治天皇が詠んだ和歌を引用した。

「日本(ヤマト)の防人となる沖縄人(うちなーんちゅ)で良いはずがない。」は、故翁長前沖縄県知事の言葉。

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「大和心」は言うまでもなく、その言葉に付随する「あるべき民族観」を示す(拙稿「やまとのこころ」)。それは、やまと=本土、沖縄=本土の防人、あるいは、LGBT(「性の多様性」)を切り捨てたり、「こんな人たちに負けない」と他者=国民の異なる意見に指を突き立てる、といった、「あるべき民族観」を前提とする差別意識である。

憲法の下、同じ日本国民であるはずなのに、沖縄人を人間の盾(防人)、沖縄を『力強い砦』と犠牲にして「日本(やまと)を盛り立てる=をゝしさ」なる考え方が「大和心・やまとのこころ」に象徴される差別主義である。大和なる軍艦を差し向け民間人ごと沖縄を本土(やまと)防衛の砦としたのも「やまとのこころ」であり、辺野古の基地問題で、再び沖縄を米国との矢面に立たせようとしている。(拙稿「沖縄の人々は本土の<防人>なのか?」)

「大和心のをゝしさ」などと、うちなーんちゅの心の傷に塩を擦り込むようなことをよくも言うものだと憤る。

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江戸時代・国文学者、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み桜に物の哀れなる日本文化の美意識や価値観を見出したとされている。多分にそれは後人によって政治的に解釈され、ヤマザクラに象徴性を持たせ国花の如く紋章や名前に付け軍人の行動規範や総国民の価値観に適用し始めたのは、大正時代である。山中の様々な木々に混ざって清楚且つ奥ゆかしいヤマザクラの佇まいを宣長は日本人の精神の象徴の一つとして詠んだ迄で、大正時代になって、清楚・奥ゆかしさとは真逆のこれぞとばかりに爛漫と咲くが如くナショナリズムの発揚に宣長のヤマザクラを借用した。『日本人本来の「心」を取り戻す』象徴として「やまとのこころ」に桜を重ね、散る桜・大和魂と、若者たちに爆弾を抱かせて無為無謀な特攻に駆り立てたのも、その「大和心・やまとのこころ」である。(拙稿「梓(あずさ)とサクラ」)

安倍という人は歴史から何一つ学ぼうとしない。「大和心・やまとのこころ」に命を奪われた者、組み伏せられた者に対して、何の心も持たない。心を説きながら、こころというものが何か全く判っていない。

「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」が「愛国」だと思っているのだろう。

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かつて私は学生に問うた、「『愛子』の『愛』はどういう意味ですか?」学生たちは口をそろえて言った、「愛される」と。
(寿岳章子著「日本語と女(岩波新書)」より)

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「(誰からも)愛される子」であって欲しいと願って親がその子供に「愛子」と名付ける場合が多いだろう。

「愛」という漢字の成り立ちは、頭を一生懸命巡らせる人の象形と心臓の象形と足の象形の組み合わせだそうだ。


(出典:OK漢字/漢和/語源辞典)

つまり、相手のために心を巡らせその気持ちを相手に運ぶ、意味となるとのこと。従って、その意味における用法は、「愛する」「愛(め)でる」という具合に能動的に用いる。したがって、「愛される」という受動的な意味はその漢字の語源にはない。

「愛される」客体としての私よりも、他者を「愛する」ことができるという主体として私が、「(誰をも)愛する子」なのかもしれない。見返りも求めないその最たる「愛」は母親が自分の子供に対していだく強い愛(母性愛)だろう。

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では「『愛国』の『愛』とはどういう意味ですか?」と学生に問うたら、百人が百人こう答えるだろう。「国を『愛する』ことです」と。

この答えでの「国」とは自国のこと。つまり「自国を愛する」となる。近頃、民放のバラエティ番組で氾濫している「日本国って素晴らしい」という自国愛の過剰なまでの強調は、他面、排外主義に裏打ちされている。隣国・他民族(の人々)を下に見ることによって(他よりも)「素晴らしい」と言うことは、一種、自惚れた自愛である。「自愛」には、自分の利益を大事にすること、利己、という意味がある。自己保存や自己の幸福を求める意味もあるが、過ぎると自己陶酔に陥る。

しかし、「愛」そのものの意味は、他者を「愛する」ことができるという主体として私である。他者とは世界中の国々と人々であろう。もし「愛国」をその意味で理解しようとすれば、内外を問わずすべての人を平等に愛することができる私が前提であれば自然、我々もこの国もそれらの人々から愛されるということになる。わが国の平和主義外交の基調は「全方位外交」「善隣友好外交」とかつて呼ばれていた。憲法の平和主義の理念を灯台とした外交を繰り広げ、国際社会における日本国の存在意義を高めていた時期があった。ところが、そうやって積み上げて来た意義をかなぐり捨てて、世界中のどの国とも変わらない戦争のできる「普通の国」に率先してなろうとしているのが安倍政権である。「押し付け」であろうと、他のどの国も欲しくても得られない平和主義なる奇貨を憲法に得た日本国が、その奇貨を捨てようとしているわけである。「愛する」に代えて「憎む」を主体とする私は、やはり他からも憎まれる客体にしかなり得ない。武力をちらつかせながら外交を行うしかなくなるということだ。

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人を敬い,また人を愛するということは、非常に大切なことではないかと思います。そしてこの子供にも,この孟子の言葉にあるように、人を敬い、人からも敬われ、人を愛し、人からも愛される、そのように育ってほしいという私たちの願いが、この名前には込められております(皇太子殿下会見・平成14年)。

「愛子」と名付けた内親王には、他者を「愛する」ことができるという主体としての私であって欲しいという願いが託されている。天皇が日本国の憲法上の象徴であるからには、「愛国」も同じく憲法が高らかに謳っている平和主義を以て、内外を問わずすべての人を平等に愛することができる私・日本国であることを願いたい。だからこそ、「大和心・やまとのこころ」などと偏狭且つ他者を差別するような自己愛であってはならない筈だ。「大和心・やまとのこころ」を是とする明治憲法やら「神の国」などを「日本を取り戻す(日本主義)」などと言って恋い焦がれる首相は、現憲法の下では居てもらっては困るのである(拙稿『安倍晋三首相・座右の銘「至誠」が意味するもの』)。

現憲法を「みっともない」と平気で蔑む安倍首相。憲法に縛られるべき立場の者が憲法を縛りにかかる(拙稿「説教泥棒・憲法泥棒」)。憲法を「新興宗教」と言い、憲法を守ることを、「新興宗教」に毒されることと喩える与党議員(稲田朋美衆議院議員・自民)(拙稿「憲法という新興宗教(稲田朋美衆議院議員・自民)」)。

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いくら現実主義だからと、憲法に掲げた平和主義の理念を我々国民はあきらめるわけにはいかない。人類にとって未だ達成し得ない崇高な理念を憲法で追及する世界でも稀有な国であり、その使命を課せられている我々であることを逆に誇りに思わなくてはならない。世界の多くの国のように武力主義の「普通の国」になるのは簡単なこと。誇りにも何もならない。

憲法に掲げた平和主義の理念は、戦死者がその命に代えてこの世に託した遺言でもある(拙稿「憲法は戦死者の遺言(俳優 鈴木瑞穂氏)」)。

「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」がいかに、こころなき引用か。戦死者の遺言を踏みにじることか。憤る。

(おわり)


posted by ihagee at 01:57| 政治

2019年01月29日

臣民の道



28日の施政方針演説で安倍首相は「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」と明治天皇の御製(和歌)を引用した。

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「日本人は幾度となく大きな困難に直面した。しかし、そのたびに力を合わせることで乗り越えてきた」とし、少子高齢化や激動する国際情勢など直面する課題に立ち向かう決意を訴えた。(時事通信社報)

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しかし、この歌がいかに政治(権力)に利用されてきたかを過去の歴史から知れば、安倍首相がこの難しい歌を敢えて引用した意図がはっきりする。そんな「力を合わせること」などという心優しげなことではなく、我々はこの引用を緩く受け取ってはならない。

「大義に生き、国家の事を以って憂えまた喜びとする臣民の本領は、平素より私心を去り、尽忠報国のまことに生きるところにある。然らずしては、事ある時に当たって大和心の雄々しさは発揮されるものではない(後述「臣民の道」から)」が、この歌に過去歴史が重ねた政治的意味である。「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」を以て政治が「臣民の道」を国民に強要した過去の歴史を、報道機関は重々知っていながらわれわれに伝えようとしない。

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「臣民」なる戦前の観念は、現憲法に保障された「個人の尊重(尊厳)、幸福追求権及び公共の福祉(第13条)」や「思想・信条の自由(第19条)」を大きく制約し、「国あっての人」に大転換しようとする自民党憲法改正草案に極めて符号する。新憲法を以て、「国家が先に来て国民が後に来る」という戦前の国体観念に引き戻そうということである。

『国家が先に来て、国民が後に来るとなると、国家が人権に対していくらでも条件をつけることができてしまう。だけど国家なんていうものは肉体を持たない架空の約束だから、結局は、政治家を含む公務員が自分の価値観や判断を「国家」の名で押し付けることになる。だから、…歴史の教訓に逆行する、おバカな発想ですよ。』(小林節・伊藤真『自民党憲法改正草案にダメ出し食らわす』106頁より)

「歴史の教訓に逆行する、おバカな発想」も、その発想を実践に移せば、国民の多大なる不幸=戦争、が到来することは、過去の歴史が証明している。歴史を教訓とすべきなのに、その「おバカな発想」の原本たる「臣民の道」「国体の本義」を、「おバカな」安倍政権は大事と思い、また同じ轍を辿ろうとするということである。

どんな不祥事が起きようと、安倍首相・安倍政権がビクともしないのは、すでに彼らの中で憲法など無視して、『国家が先に来て、国民が後に来る』で何事も押し切ってしまえ、と実践に移しているからかもしれない。所詮は架空の約束たる国家だから、官僚も行政も国家の都合で必要とあれば不正すら平気で行う。責任の所在すら曖昧で、行政府の長すらその身を以って責任を取らない、マスコミもこの不正を「不適切」などと誤魔化し過小化しようとする。

最初から結論ありき、国民への説明などなくて良い、という国会での与党の態度を見ていれば『国家が先に来て、国民が後に来る』をおおっぴらに実践していると、思わざるを得ない。偽り・騙し・隠し・脅すのも最初から結論ありきのための七つ道具である。「国家が先に来て」だから誰も国民は口出し出来ないだろう、「絆」と言えば簡単に長きに巻かれる国民だ、「日本国って素晴らしい」と日々唱えさせていれば全体に個を預けてしまう薄弱な国民だ、とタカをくくっている。この傲慢ゆえに、図に乗って、明治天皇の歌を施政方針演説で安倍首相は引用したのだろう。いずれ憲法を改正し堂々と『国家が先に来て、国民が後に来る』にしてやる!と。

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臣民の道(しんみんのみち)は、 第3次近衛内閣時(昭和16年)に文部省教学局より刊行された著作である。 個人主義思想を否定し、ただ国体の尊厳を観念として心得るだけでなく、国家奉仕を第一とする「臣民の道」を日常生活の中で実践する在り方を説いている。




第二章の「 國體と臣民の道」では刊行前年の皇紀2600年記念祝典に関連し、古事記など様々な史料を引用して神国たる所以や忠君について述べている。それを踏まえ「臣民の道の實踐に於いて億兆これ一でなければならぬ」として万民の一心同体を強調し、徹底した家族国家観のもと「我等はまた大御心を奉體し、父祖の心を繼ぎ、各々先だつて憂へ後れて樂しむ心掛けを以つて率先躬行し、愈々私を忘れ和衷協同して、不斷に忠孝の道を全うすべきである」と説き、そのくだりで、「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」が登場するのである。

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我等の祖先は、肇国以来歴代の天皇の大御心を奉じ、明き浄き直き誠の心を以って仕えまつり、「海ゆかば水漬くかばね、山行かば草むすかばね」の言立も雄々しく、「大君の醜の御楯と出で立つ我は」と勇み立ち、努め励んで来た。明治天皇の御製には、 しきしまの大和心のおおしさはことある時ぞあらわれにける と詠ませられてある。皇運扶翼の赤誠は、国家の危機に際し赫々と発露する。かつて亜欧の天地を席巻した元が、その余勢を駆って我が国をも併呑せんと泊まり来たった時、我が国民は如何にしてこの国家を防衛し、光輝ある歴史を守ったか。御身を以って国難に代らんと御祈願あらせられた亀山上皇の御軫念は申すも畏し、菅原長成の草した返牒案や宏覚禅師の祈願文に現われている如く、国民は我が国こそ万邦に優れたる神国なりとの自覚に奮い立ち、北条時宗は終始烈々たる気魄を以って率先国難に当たり、一般国民もまた老若男女を問わず身を挺して国の護りに就き、挙国一致、力戦奮闘してよくこの強敵を撃破したのであった。
(第二章の「國體と臣民の道」より)

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(しきしまの大和心のおおしさはことある時ぞあらわれにける「臣民の道」)

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すなわち「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」と明治天皇の御製(和歌)を以て、 個人主義思想を否定し、ただ国体の尊厳を観念として心得るだけでなく、国家奉仕を第一とする「臣民の道」を日常生活の中で実践する在り方を説いたのである。その実践すべきとする具体例は「臣民の道」第三章にあるが、「国体の本義」がその基となっている。

この考え方は、あらゆる場所で国家権力による強制をともなって広められ、実践に移された結果、兵士の生命を軽視した無謀な戦術や自決の強要などによって、戦争の犠牲者を増大させる大きな原因となったことは歴史の証明するところ。従軍慰安婦だろうが徴用工だろうが、国体とか臣民とか言う限り、全て国民の義務としてあの時代には肯定されていた。義務であって単に「強制」なる言葉の定義がなかっただけで、実質は国家による強要であり、結果として人権を侵害したことに他ならない。

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要するに、安倍首相はこの歌を施政方針演説に引用することによって、あの時代のあの歴史をまた辿ろうとしているのである。未来志向と言いながら、過去の悪しき轍を辿ろうとするのであるからやはり「おバカ」とし言いようがないが、付き合わされる我々にとっては、バカでは済まない。バカにはさっさと辞めてもらうしかない。

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「我々国民としては我々の先祖が踏み越えて来た険阻なる幾山河、幾多の艱難辛苦を思い、その築き上げて来た輝かしい成果を振返って大いに大和心を奮起し、この難局克服に官民協力して邁進せねばならぬ。(時局を衝く 財界人縦横談・昭和15年)」

安倍首相の「日本人は幾度となく大きな困難に直面した。しかし、そのたびに力を合わせることで乗り越えてきた」が重なる。(拙稿「私たちはどこまで階段を登っていますか?」)

安倍首相のマイブーム「やまとのこころ・大和心」はこんなところに淵源がある。その背景も行き着く先も上述の通り。歴史がその道の誤りをしっかり証明している。その誤りの頂点に安倍首相の尊敬して止まない祖父(岸信介)がいる。隔世遺伝でまたしても誤りを極めようとしているのか。

それにしても、安倍という人は気味が悪い。キツネ憑きに取り憑かれているに違いない。霊験あらたかな薬でそうなったのか、キツネ憑きのこの国の自称最高責任者は今やキツネの友達としか話をしない。そして遂に精神にも異状をきたし「狐憑きにかかるものは、狐のおらざるに常に目に狐の形を見、耳に狐の声を聞き(中略)狐憑きは、狐の夢を実現するものと心得てよろしい。(拙稿『キツネ憑きの話(「戦争に戦う」が「戦争で戦う」になる)』)

そのキツネの女房殿から一献いかがなどと「やまとのこころ」を注がれて、うっとりと我々はそのこころに聞き入ってはならない。われわれもキツネに取り憑かれる。

臣民などお断りである。

(おわり)

追記:
「臣民の道」、しかし、大御心と奉じる「天皇」はその道に居ない。日本会議はそれでも勝手に天皇を奉じて前時代的精神主義を受け継ぐことだろう。誰もいない御簾の向こうからあたかもご託宣があるかに、その声を借りて、かつて安倍晴明が朝廷において精神的支配者となったように、宗教的な呪術・祭祀でこの国の裏の秩序を支配し続けるつもりらしい。言うまでもなくこれはカルトである。そして表の秩序はこの国の宗主国たる米国への忠誠だったり、この国の権益を外国に売り渡したりと、大日本主義とは真逆でもある。

「国家が先に来て、国民が後に来る」、だからと言って、大御心と奉じる「天皇」はその道に居ない、となればソ連型の国家社会主義である。事実、足かけ5年以上に及ぶ指数連動型上場投資信託(ETF)の買い入れで、日銀は主要上場企業の株式に対する影響力を強め、事実上の企業公有化が進んでいる。共謀罪やら通信傍受やら、国家による国民の監視も旧ソ連並みになりつつある。右どころか左である。

つまり、安倍政権・政治なるものを俯瞰すると、論ずるに値する整合性もない支離滅裂しかない。場当たり・思いつきで、こっちを齧り、あっちを齧りと食い散らかす。スローガンやらアドバルーンや矢をやたら打ち上げたり飛ばしたりするが何のためにもなっていない、明確なイデオロギーたるものもなく、カルトの匂い芬々と、大衆の鬱屈した空気に舞い上がってふわふわと漂う綿ぼこりにすぎないのかもしれない。

到底、まともな対話や討論ができる相手でもない、こんな綿ぼこり相手にまともに論じようとすると、バカらしくなる。とても疲労する。きっと、安倍晋三という人の精神構造がこちらの理解を困難にしているのだろう。承認願望やら功名心やらコンプレックスやら。しかし、安倍晋三という人の天然な、嘘八百・糠に釘・馬耳東風・豆腐に鎹・暖簾に腕押しぶりは、最大の強みである。「何を言っても無駄だ」とドォと無力感・脱力感に捕らわれる人々、「民主党時代は〜、韓国がぁ〜」と見下したりバッシングする相手がいれば「俺らって凄い・日本国って素晴らしい」と自分では何一つ誇れることがないのに気分ばかり夜郎自大な人々を、大量に生産する。その脱力感やら無力感やら尊大さが入り混じって空気となって、綿ぼこりたる彼を意味もなくふわふわといつまでも舞い上げているのである。

金子勝氏(慶応義塾大学経済学部教授)は「脱力化ポピュリズム・無力化ポピュリズム」と分析したが、我々国民の政治への無関心・諦めこそ、民主主義を破壊する。そして、この国がガラガラと音を立てて壊れていくことだけは確実に理解できる。




posted by ihagee at 18:00| 政治