2018年12月28日

黄金のウナギ(Zlati uhor)



白い腹を陽光に煌めかせ黄金に輝くウナギ。
ボヘミアの中庸たる大地を滔々と流れる河のどこかにそのウナギは棲むという。
誰もみたことのないというこの黄金のウナギの伝説を少年は父から聞かされた。

或る日、その父はナチに連行され少年は母と二人きりとなった。ナチに立ち入りを禁じられた河に少年は母のためにウナギを探しにいった。ナチの兵士たちは糸を垂れる少年の姿を見つけ竿を取り上げ「こうやるもんだ」と笑いながら腰にぶら下げていた手りゅう弾を河面に投げつけた。魚採り名人のおじさんに教わってようやく掴み取れるようになったイワナが爆音と共に呆気なく死んで浮かび上がった。家に戻ると母も居なくなっていた。

ナチの兵士たちの目を盗んで釣った小さな二匹のウナギにいつかこの場所に戻ってその時こそ黄金に輝いて見せてくれと願いを託して少年は河に放つのであった。

海外ドラマ(チェコスロヴァキア)シリーズとしてNHKテレビで1980年代に観た「黄金のウナギ(Zlati uhor)」を思い出した。うろ覚えなので細かな情景は間違っているかもしれないが、強烈に記憶の底に焼き付いている。

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弄ばれる命のなかにあって小さなウナギに希望を託す少年のいたいけな心に惹きつけられる秀逸なドラマだった。ウナギは少年にとって日用の糧であると共に、自由と希望の象徴(黄金のウナギ)なのである。

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先日、国際捕鯨委員会(International Whaling Commission; IWC)を日本は脱退した。
IWCは国際捕鯨取締条約に基づき鯨資源の保存及び捕鯨産業の秩序ある発展を図ることを目的として設立された国際機関。日本の条約加入は1951年である。

鯨が日用の糧であった時代は終わった。私の少年時代、安価且つ貴重なタンパク源として学校給食に竜田揚げなどに調理されて鯨肉が供されたものだった。あの独特な風味は今も舌が覚えている。だからと言って、鯨のいのちを「いただく」必然を今の食卓に考えることは一切ない。もっと滋養があり旨い食べものは他に幾らでもある。鯨はどの部位も全て社会に役立つとされてきたが、今はそのどの部位も代替するものがある。鯨でなくてはならない理由もない。

しかし、捕鯨を生業とする人々(和歌山や山口の一部沿岸漁業者)、食を含めた伝統文化や技能保全の為に鯨のいのちを「いただく」のは必然と言って日本はIWCと袂を分かち脱退した。しかし、私を含め多くの日本人はもはや日用でもないものを必然だとは思わない。

必然を同じ理屈で繰り出すのなら、象牙や鼈甲も同じ。伝統工芸の為だと、象やタイマイを殺しその象牙や鼈甲を市場に流通させることは正しいと主張してワシントン条約も離脱することになる。

和歌山や山口の一部沿岸漁業者の民意を汲んで国際機関を離脱したのであれば、なぜ、辺野古の基地問題で沖縄の民意を汲んで日本政府は県外移設を前提に米国と膝詰め談判をしないのか?捕鯨と基地問題とどちらが喫緊且つ重要な問題なのか?事の軽重をわきまえないのにも程がある。

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鯨資源の保存及び捕鯨産業の秩序ある発展を目的にそもそも設立されたIWCであるが、後者の必然性が薄れ、前者の目的での調査捕鯨となり、その調査捕鯨すら、捕獲殺害せずに調査可能とされ(当たり前だが)、調査を名目に後者の目的の遠洋捕鯨を行ってきた我が国はIWCで孤立したのであろう。脱退は日本にとって自らその科学的重要性を説いていた調査捕鯨まで否定することになるという自己矛盾も孕んでいる。日本が脱退することでIWCは将来に亘って全面的に調査捕鯨を禁止することになるだろう。

組織としてたとえ目的の変質や機能不全があろうとIWCは国際機関であり、その国際機関を脱退するということは、或る面において国際協調を否定することになる。自国優先主義を掲げ、国際機関を次々と脱退して止まないトランプ流孤立主義と同じと揶揄されるが、反面、捕鯨が日本にとって孤立主義を貫くに価する大きな課題であるのだろうか?と国際社会から首を傾げられてもいる。我々一般庶民すら首を傾げるのだからそうだろう。しかし、国際社会で我が国に貼られるレッテルはトランプ流孤立主義であれば、酷く分が悪い。それでなくとも「アンダーコントロール」などと未曾有の原発事故を過少化し海洋汚染が全くないかの如く言い繕っている日本政府にこの問題を契機に国際社会から不信の声が一挙に上がる可能性もある。調査すべきは鯨ではなく日本政府であると。

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それにしてもなぜ、捕鯨が国際社会から非難を浴びるのか?

ドラマの上での「黄金のウナギ」と同じく、鯨が今や自由・平和の象徴となっているからだ。鯨をテーマにした欧米の文芸作品の基調はおしなべてそうである。

その自由・平和の象徴たる鯨やイルカに銛を打ち込み棍棒で撲る情景は、国際社会からそれが「必然」であると到底見なされることはない。牛や豚だって殺すじゃないか?と反論したくもなるが、日用の糧としていのちを「いただく」ためだけに生かされているそれら家禽(隣国の食用として飼われている犬も同じ)と同じ見方を鯨やイルカに対して国際社会はしない。「牛や豚よりも高等生物だからだなんて人間の側の日和見だ」、「可哀そうだなどとは単なる感情論だ」などと言えばそうだろうが、国際社会のマジョリティにとって、鯨やイルカが自由・平和の象徴を勝ち得ているのであれば致し方ない。「神使」且つ「ユネスコの世界遺産」である春日大社の鹿が古都奈良の象徴となっているのと同じこと。旨そうだから殺して食べてしまおうなどと我々日本人は誰も思わない。象徴とは斯くたることである。

このように象徴となっている鯨やイルカに関して安易に考えると危い。国際世論は我々の千倍以上もセンセーショナルに反応しているからだ。

この反応の差を如実に表した事例が、今年9月の2020年東京オリンピックのテスト大会として行われたセーリングのワールドカップ(W杯)江の島大会の開会式だった。式は各国アスリート・関係者を招待して江ノ島水族館で催され、歓迎の意味でイルカショーが披露された。我々だったらイルカの演技に拍手喝采して喜ぶだろう。ところが、これを見た2012年ロンドン五輪セーリングの銀メダリスト、ルーク・ペイシェンス(Luke Patience)氏は、「衝撃を受けた。今目にしていることにこれ以上ないほど当惑している。」などとツイッター(Twitter)に投稿し、一瞬にこのコメントはSNS上で同感を呼び伝播し、国際セーリング連盟は、開会式にイルカショーが盛り込まれていたことに「失望」を表明する事態となった。招致した日本側は平謝りだったようだ。「喜んで貰えると思ったのに、まさかこんなことになるとは思いもつかなかった」というのが本音だろう。

この「衝撃」の伏線として、世界動物園水族館協会(スイス)は日本の水族館による太地町のイルカ入手を問題視し、日本動物園水族館協会の会員資格を停止した事実がある。つまり、ショーに使われたイルカは、和歌山県太地町の追い込み漁で捕獲されたイルカだとの事実認識が彼らにあるからだ。浜から沖合まで血で一面真っ赤に染める修羅がこのショーのイルカの出自だと知っているからこそ「衝撃」というコメントになっているのは明らかである。

テスト大会とは言え、2020年東京オリンピックとイルカはこの事例でリンクし、さらに先般のIWC脱退が加わって、欧米の環境保護団体からは2020年東京オリンピック開催期間迄はせめて捕鯨再開を留保するように日本政府に働きかけるようIOCに要望する動きもある。いや、そんな事では手緩いと、boycott 2020 Tokyo Olympicsにハッシュタグを付け、大きな銛を幾つも撃たれ断末魔の苦しみに尾ひれをばたつかせ飛沫を上げる鯨や血だらけでぐったり横たわるイルカの写真を添えてSNS上で呼びかける動きも出てきた。正直、私にとってこれらの写真はあまりに凄惨で正視に耐えない。感情を動かすなという方が無理である。鯨の流す血は人間と同じく生暖かいという。日本政府はこれらの情景においても顔色一つ変えずに「感情論は抜きにして」などと、さぞ冷血に必然性を説いているのだろう。

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2020年東京オリンピックに向けてこの問題で国際世論は日本に一層厳しくなると懸念する声が海外メディアにアンテナを張っている人たちからも伝わってくる。

国会の決議を経ず(このこと自体が憲法違反である)、山口と和歌山を各々地縁とする安倍首相と二階幹事長の政治判断でIWC脱退となった。今後の国際世論の行く末は彼らの政治責任としていずれ問われることになるだろう。

「たかが鯨、イルカ」と甘くみてはいけない。地元民から「神様」などと崇められすっかり気を良くして「してやったり」と彼らが鯨肉を頬張るのも今の内かもしれない。

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憲法上の象徴、今上天皇の平和への強い思いは次の皇太子徳仁親王にも引き継がれることだろう。今や平和憲法の象徴となった天皇。梓(あずさ)が皇太子徳仁親王の御印である。それをミズメザクラと解する人がいるようだが、実際はノウゼンカズラ科のキササゲとのこと。ミズメザクラで弓を作れば小楠公の武器となる。しかし、硬くてしなりがないキササゲでは弓は作れない。キササゲは古くから叛木に用いた。本を出版することを「上梓(じょうし)」と言うのもこの由来である。文字を刻む・書物を著す=梓(キササゲ)が皇太子殿下の御印であることは実に相応しい。キササゲには弓となる尊王思想や誠忠の志の花実はつかない(拙稿「梓(あずさ)とサクラ」)。

梓をミズメザクラと勝手に解釈し、弓を作っては始終武器のことばかり考えている者もいる。民の竃・炊煙に興味などなく、軍事転用可能な核の火種を原発ビジネスと他国にトップセールスする。あたかも平和・自由の象徴たる鯨に銛を打ち込むごとく、憲法の理念たる平和に弓を引く者である。憲法の論理的限界を突き破る閣議決定なる解釈を繰り返し憲法の理念を破壊する者。その破壊行為が「内乱予備罪」で最高検察庁に目下刑事告発されている者でもある。

この者は漢字もろくに書けず、綴り方一つ知らず論考というものがない。他者の意見に耳を傾けることもなく、複雑なことも二元論的に単純化し法秩序の連続性すら簡単に断ち切る斟酌論考の軌跡のない出所不明の怪文書的政治の頂点で権勢をふるう。「この道しかない」と言うが、綴るという行為を示さずにその先に道を見る事も究めることもできないのである(拙稿「<綴るという行為>」)。

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あの少年が託したように我々も希望を捨てず、「平和」なる黄金のうなぎの帰り来らんことを願おうではないか。「平和」を絵空な理念と馬鹿にしたければ馬鹿にし給え。しかし、「平和」こそ言葉を持つ者たちなら諦めることなく追求すべき理念であり、理念なき社会は言葉を持たない者たち同士、血で血を贖う暗黒である。


(1990年「プラハの春」に亡命先から帰国したクーベリックにプラハ市民は平和の訪れを実感した。この日、モルダウは黄金に輝いていたことだろう。)

(おわり)

posted by ihagee at 19:15| 政治

2018年12月25日

サイアノタイプ - その61(引き伸ばし機)



今年も残りわずか。
東京都中央卸売市場が築地から豊洲へと移転したものの、新市場については構造計算偽装(設計:日建設計)をめぐる裁判が係争中と聞く(『豊洲市場の「闇」に光差す!東京高裁「抗告許可」決定(前)〜技術専門家が解説』2018 データ・マックス)。

また、閉場された築地に於いても『のれん』に基づく営業権に関して、仲買人たちと都との間で法律上の対立が続いている(築地女将さん会HPより)。

法を曲げてまで移転が優先したのであろうか?食の安全を語る以前の問題であろう。

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拙稿「五輪」という破壊(続き6)で、閉場直前の築地について報告し(フィルム撮影:Canon AL-1 / Kodak 400 Tmax / Carl Zeiss Jena, Flektogon 4/25)、ネガフィルムを使ってサイアノタイプ・プリントも試みた(拙稿「サイアノタイプ - その58(引き伸ばし機)」)。

Lucky II-C (Fujinar-E75mm F4.5)を用いて、あらためて一枚プリントを行った(vif Art (B5 H.P. surface) )。

Cyanotype print made on an old photographic enlarger directly from a 35mm negative film without using a conventional contact printer and digital processing

(Fujinar-E75mmF4.5で四時間焼き付け・水洗オキシドール漬後、ジャスミン茶でトーニング)

サイアノタイプは感光剤の低感度ゆえに引き伸ばし機の光源(白熱球)では感応しないものとされてきた。しかし、ブラックライトのUV光源であればそれなりに時間をかければ感応可能であると判ったのも今年に入ってから。これは大きな発見だった。白熱球をUV光源に置換すれば銀塩プリント用の引き伸ばし機が使えるからである。

スライドプロジェクタを改造した手製の引き伸ばし機に始まり、35mmフィルムにはアタッシュケースのLucky Attache-35(Nikon EL-NIKKOR/1:4/f=50mm)、

Cyanotype print made on an old photographic enlarger directly from an analog negative film without using a conventional contact printer and digital negative processing


35mmフィルム及び120フィルムにはLucky II-C (Fujinar-E75mm F4.5)、

Cyanotype prints (test prints) made on an old enlarger (Lucky II-C ) >> directly from 35mm negative films <<.  Those were made without conventional contact printing and digital processing.




そしてガラス乾板には昭和11年(1936)製乾板用引き伸ばし機(近江屋写真用品=ハンザ特許引き伸ばし機 / Anastigmat F=105, 1:6.3)

Cyanotype print made on an old photographic enlarger directly from a photographic dry plate (glass plate) without using a conventional contact printer and digital processing


をヤフオクで『格安』で購入し、それらを使い分けることによってほぼ思った通りのプリントができるようになった。プロダクティビティの塊たる引き伸ばし機はモノづくり華やかなりし昭和の遺物。モノとしての存在感(リアリティ)はいまどきのペラペラとしたデジタル製品と比べれば半端でない。プラスチックを使わないアナログのメカニズムは百年経過しようと実用に耐える。新たな目的を与えればすぐに復活させることができる。ここがわずかなライフスパンの為だけに設計製造されもっぱら消費されるのみのデジタル製品とは異なるところだ(拙稿「百代の過客」「発想の転換(“最も古いまだ使用中の家電”コンテスト)」)。

中華製懐中電灯タイプのブラックライト(FOCUSPET 100 LED)から取り外したユニットを電池の代わりにAC/DC adaptor (9V/350mA)で駆動したUV光源がサイアノタイプの長時間の露光には最適と判った。

また、印画紙面上のピント合わせに、小穴式ピーク・引伸用ピント・ルーぺI型(No. 2000)をiPodTouchのカメラと接眼レンズアダプタを介して連動させることで、iPodTouchの液晶画面上で合焦が可能となった。395nm近傍の微弱なUV光とは言えどもピント・ルーペで覗くことは目に良くないが、この手段ならばそうせずに済む。

Cyanotype print made on an old photographic enlarger directly from an analog negative film without using a conventional contact printer and digital negative processing


20枚程度(4時間/枚)プリントするとさすがに光が弱くなるが、ブラックライト自体は3000円以下でアマゾンで購入可能な品物なのでコスパは悪いとは言えないだろう(デジタルネガ作成に係る費用に比べれば)。何よりも、銀塩プリントをするように引き伸ばし機でサイアノタイプ・プリントができる点は、デジタル・ネガ & コンタクトプリンタの工数や手間と比較しても、やはり一利あると思う。そして、銀塩プリントのような暗室は要らず(外光が差し込まなければ室内灯の下でプリント可能)、焼き上がりの次第を都度視認できる点はデジタルネガに覆われて焼きつけ面を視認できないコンタクトプリンタにはない利点でもある。そして、印画紙上で自在に光像を拡大縮小できる点はOHPフィルムのデジタルネガに勝る。

フィルムで撮影し引き伸ばし機でプリントする工程にデジタルは介在しない。アナログで完結する写真の意義は銀塩プリントであればそれなりの工数と手間と知識を要するが、サイアノタイプでは要しない。銀塩プリントの手軽な代替手段となり得るということも判った。オリジナルのネガフィルムをそのまま用い、時間をかけてゆっくり焼き付けることでサイアノタイプの感光剤のグラデーションの可能性を引き出せることも理解した。コンタクトプリンタを使い強烈な太陽光の下で数分の内に焼く場合はこうはいかない。焼き目を視認できない上、光源のコントロールが効かない為、グラデーションに予め閾値を決めてデジタルネガを作る必要があり、結果として微妙な濃淡を再現することは難しい(少なくとも私の腕では)。

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本稿の引き伸ばし機を使ったサイアノタイプ・プリントはCyanotype printing with an enlarger として、Flickr上にグループを作成しているが、来年(2019年1月8日)からFlickrは無料版の容量を1TBから1000点までに縮小するそうだ。アップロードできる写真と動画が1000点に制限される。無料版を使う限り、1月8日以降は、最新の1000点を残し、古い写真と動画から削除されるとのこと。Flickrの写真を本ブログでも記事中にエンベッドしているが、古い写真は削除され表示されなくなるだろう。影響大である。(詳しくはCNET Japanの関連記事参照のこと)

私のようにアナログフィルムからのスキャン画像をFlickrにアップしている場合、たとえ仮想空間上の写真を削除されてもフィルムなる現物がなくなる訳ではないが、元からデジタルデータでFlickr以外に保存していない場合はデータをローカルに退避させておく必要がある。Flickrに膨大なデジタル写真をアップロードして保存していた人々は有料版に切り替えざるを得ないだろう。デジタル媒体は仮想空間上ではときとして放浪し無宿者となって消える存在なのだろう。マイナンバーで括られる人間の存在も同様にデジタル化しつつある。デジタル社会はアイデンティティの否定・無責任と虚飾・粉飾・嘘偽りの温床となりつつある。しかし、アナログフィルムにその心配はない。振り返ってみればアナログの時代にその心配はなかった。現物を透かせばはっきりとありのまま現実を見ることができたからだ(拙稿「紙は最強なり」)。

それにしても随分阿漕な手法をFlickrの事業主(SmugMug)は取るものだと少し憤慨している。自作アナログ写真・サイアノタイプ・プリントのみ集めたブログを正月休みにも別に作ろうかと思案中である。

(おわり)

posted by ihagee at 04:05| サイアノタイプ

2018年12月13日

牛久シャトー・明治以来の歴史に幕



”ワイン人気が続く中、明治時代から110年以上続く日本初の本格的ワイン醸造場が「閉鎖」される。茨城県牛久市の「牛久シャトー」。施設は引き続き見学できるものの、28日でワインやビールの醸造と販売、レストランなどは終わり。地元は動揺し、存続を求める動きが広がっている。(東京新聞2018年12月12日「ニュースの追跡」 片山夏子)”

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施設の見学は今後も可能のようだが、レストランを含め飲食販売は営業を終える。

同施設は東北地方太平洋沖地震(2011年3月11日)で由緒ある本館(1903(明治36)年9月完成)などが罹災し、その後長い時間をかけて復旧したものの、震災前の賑わいをついに取り戻すことができず此処に至ったようだ。

地震の10ヵ月前、ゴールデンウィークの最中に同施設を訪れた(2010年5月4日)。その時の写真を今見返してあらためて賑わい振りを思い出した。

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(本館の正面左袖は趣のある喫茶室だった。震災後は閉鎖。)

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(竹林の向かいに和食処があった。震災後オエノン・ミュージアムとなる。)

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(その竹林で掘りたての筍が食事に供された。)

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(程よい暗さのワインセラーは所狭しとボトルが並び歴史を感じさせた。震災後は大分趣が変わってしまった。)

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牛久シャトー(醸造所)の創業者・神谷傳兵衛が始めたのが「香鼠葡萄酒(こうざんぶどうしゅ)」。輸入葡萄酒に蜂蜜や砂糖で甘味をつけハーブで風味を高めた再製葡萄酒である(1886(明治19)年「蜂印香竄葡萄酒」)。拙稿「巴(ともゑ)の酒(函館・菅谷善司伝)」でも触れたように、私の先祖の恩人たる菅谷善司が始めたのもこの香鼠葡萄酒である。当初日本人の口に合わなかった本場の葡萄酒に風味を加えて日用とし少しでも欧米の文化に近づこうとした先人のせつたる思いは、神谷傳兵衛と菅谷善司に共通していたのだろう。

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オリンピック万博だと沸き立つ。破壊を前提とした再開発と巨大な利権が都市部に集中する一方、その周辺では営営と築きあげてきた文化が廃れていく。「シャトー」と冠して醸造をやめる、そんな「シャトー」は欧米では見当たらないだろう。ワインを傾けながら食事をする、この自然な景色すら地方では成り立たない現下の歪んだ経済にアベノミクスの「嘘」が透けて見える。

今年の漢字は「災」だそうだ。「災い=自然に起こる悪い出来事。生活を損なう出来事。」
出来事に済ます世相、元(元凶)を糾そうとしない、その元に忖度したかの選定に憤る。口や舌を十悪とする仏教に於いて、たとえその一字が公募選定の結果であろうと、口や舌を以って悪を揮毫しようとしない清水寺の貫主。仏の心さえ悪に寛容となったようだ。

その元凶こそ口と舌。「嘘」を蔓延らせる者どもである。息を吐くが如く嘘を吐く為政者。その嘘に全く寛容な者たちがいる。「二枚の舌に対して一つの耳」で良いという傲慢不遜さは政権の閣僚たちに共通している。耳を多くしてこそ政治であるにも関わらず。

左とか右とか思想的立ち位置の問題ではもはやない。嘘つきか否か、だけ。嘘つきを支持するか否かだけが我々に突きつけられている。老いも若きも、嘘に全く寛容になった。嘘で固められた大本営発表で若者に、人間をやめさせた=命(個)を捨てさせた、あの時代の異常な寛容さに戻ろうとしている。「嘘つきやめますか?それとも人間やめますか?」その瀬戸際に我々は立っていると認識すべきだ。
(拙稿「嘘つきやめますか?それとも人間やめますか?」)。

今年の漢字は「嘘」でなければそれこそ嘘である。

(おわり)

posted by ihagee at 02:47| 日記