2018年08月04日

サイアノタイプ - その50(引き伸ばし機)


ライトボックス(拙稿「サイアノタイプ - その47(引き伸ばし機)」)を押入れから出したものの今ひとつ撮影する気になれずまた仕舞い込んだ。

昭和11年(1936)製の乾板用のハンザの引き伸ばし機(ハンザ特許引き伸ばし機 / Anastigmat F=105, 1:6.3)を用いたサイアノタイプ・プリント(水彩画用のvif Art (B5 H.P. surface)に薬剤塗布し印画紙とする) に戻る。

コンデンサーレンズは一枚だけ使っているが、レンズの凸側に輪状に薄く傷があり光の当たり方次第では印画紙上に影を落とす。

Cyanotype print made on an old photographic enlarger directly from a photographic dry plate (glass plate) without using a conventional contact printer and digital negative processing


1920年代の10.5 x 8cm 大のガラス乾板を使い、UV LED光源で二時間焼いたものだが、稚いファースト・キスに同心円状に薄く輪が写り込んでいる。

そこで、平らな反対の面にリアプロジェクション用の透明なフィルムを切り出して貼り付けてみた。結果は影が出なくなり均一に光が印画紙に届くようになった。

Cyanotype print made on an old photographic enlarger directly from a photographic dry plate (glass plate) without using a conventional contact printer and digital negative processing


1900年頃の10.5 x 8cm 大のガラス乾板の、ファーコートに身を包みヴィクトリアン朝の巨大なボンネットを被った夫人の像(二時間焼き付け・水洗後ジャスミン茶でトーニング)。

Cyanotype print made on an old photographic enlarger directly from a photographic dry plate (glass plate) without using a conventional contact printer and digital negative processing


同じく1900年頃の10.5 x 8cm 大のガラス乾板の親子の像(二時間焼き付け・水洗後ジャスミン茶でトーニング)。経年でコロージョン(腐食)があるが幸い像は侵されていない。

時代は遡るほど、服飾は手が込みそれに身を包む人も風格を伴うようだ。その時代の人が現代人のラフな格好をみたらきっと卒倒するだろう。服飾・装飾の豊かさというものは時代と比例するとは限らないのかもしれない(拙稿「ガブリエル・レイ(Gabrielle Ray)」)。撮られるということが日常でなく、ピンと背筋を伸ばしそれなりにかしこまるのが作法だったその昔を思い出した。後々まで残るのだからと身形をただした人々をアナログ写真は記録したのかもしれない。

Cyanotype print successfully made on an old enlarger (Lucky II-C ) >> directly from a 35mm negative film <<. This was made without conventional contact printing and digital processing.

(1950年代東京・35mmフィルム / Lucky II-C (Fujinar-E75mmF4.5)で七時間焼き付け)

Cyanotype print successfully made on an old enlarger (Lucky II-C ) >> directly from a 120 negative film <<. This was made without conventional contact printing and digital processing.

(1950年代積丹美国・120フィルム / Lucky II-C (Fujinar-E75mmF4.5)で七時間焼き付け)

(おわり)



posted by ihagee at 04:06| サイアノタイプ

2018年08月02日

「政治の低能化の証し(小林節 慶応大名誉教授)」続き



「政治の低能化の証し(小林節 慶応大名誉教授)」の続き。

法律の基礎知識すら備わっていない政治家が憲法を解釈する。安倍総理大臣のことだ。

〔家族関係における個人の尊厳と両性の平等〕
第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

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安倍総理大臣は2015年2月18日の参院本会議で、同性婚について「現行憲法の下では、同性カップルの婚姻の成立を認めることは想定されていない」と述べた。日本を元気にする会の松田公太氏が、同性婚を認めるには憲法第24条の「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する」との規定が問題となるかただしたのに対する答弁。

「総理大臣がそう言うのだから、杉田水脈議員のLGBT(性の多様性)についての疑問を掲げる発言は正しい」と言う人がいる。「総理大臣がそう言えば」憲法の解釈すら総理大臣に許す・・政治の低脳化はその低脳を支える国民の低脳の上に成り立つ。ひたすら「日本国って素晴らしい・日本人って凄い」と無定見に呪文のように唱え自己暗示にかかっていれば、その「美しい日本」の旗を振る安倍総理に絶対の信頼を寄せるのであろうが、それは無思考・思考停止でしかない。性の多様性の前提である個人の尊重やら個人主義など認められない・家族主義こそこの国の社会の単位であり、それが美風(後述)である。その単位は家族であり、その家族とは両性婚で且つ子供を産む(生産性)こと、というのが彼らのテーゼであり彼らの言う「美しい国」だそうだ。その「美しい国」は現行憲法なんかに縛られない・憲法の下の法治でなく安倍総理の下の人治が正しいと盲信する。「みっともない憲法」を縛りにかかる安倍総理は頼もしいとなる。愚かとしか言いようがない。

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「同性」および「(同性の)婚婚」について憲法第24条は書いていない。
条文に書いてあることからどう解釈すべきか?ということだ。

文理解釈(文言にある通り解釈する)では、先ず、「両性」および「(両性の)婚姻」と解釈されるだけ。素直に読んでそれで終われば越したことはないが、現実社会はそんな単純ではない。安倍総理の上述の答弁はそのレベル
(単純に考えただけ)ならまだしも、実質的理由(後述)から書いていない文言を付け加え解釈している節がある。つまり、「書いていないことは書いていない」と文言上形式的にしか言えないのに、「同性カップルの婚姻の成立を認めることは」と書いてない文言を付け加え実質的理由(否定する)から解釈しようとしているからだ。これは「私が解釈すればそれが憲法」なる横暴である。

拡張・縮小解釈(意味を広げたり・狭めたりして解釈する)では、そもそもこの条項の目的・趣旨に「同性」および「同性婚」は想定されていないので、立法時に想定されていた観点からはこの解釈はできない。しかし、法律が制定された歴史的経緯を探求したり,現在においてどのような機能を果たしているのかを検討すると、立法された時点と観点が大きく変わって、現時点の観点から解釈が必要な場合もある。性の多様性はその異なる観点となり得る。法律の目的ないし趣旨が,一つの方向だけの単純なものではないことの方が多い。

「両性」および「(両性の)婚姻」なる一つの方向だけの単純なものではない、からこそLGBT(性の多様性)が問われている。どのような理由で解釈問題が生じているのかを考えれば、「同性」および「(同性の)婚姻」も「両性」および「(両性の)婚姻」とバランスを取って解釈をすべきということだ(類推解釈・反対解釈)。性の多様性とは同性も両性も認め合うことであれば、両性と同性の利益はバランスを取るべきであろう。

だから、少なくとも「同性カップルの婚姻の成立を認めることは想定されていない」ではなく「同性カップルの婚姻はもともとは想定されていないが、性の多様性の観点からすれば規定されていると解釈もできる」と安倍総理は答弁すべきであろう。性の多様性を認めることが自民党の党是である限り、また内閣の見解である限りは、性の多様性を認めることも観点とし解釈をしなければならない筈だ

性の多様性を認めることに条件をつける(生産性の観点)こと自体、杉田議員はつまり、党是に背いていることにもなる。自民党として杉田議員に対して処分を行わないことは全く理解できない。

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ものごとを単純化(二値化)し、他方を切り捨てる。安倍政権になってから政治ばかりでなく、法律の解釈についても認めたくない他方はそうやって切り捨て、条文に書いてなくとも、海外派兵・集団的自衛権のように認めたいことについては無理やり政治的解釈(実質的解釈)をする。

「家族が社会の単位」なるアナクロニズムに浸り、是枝監督の作品に描かれた「万引き家族」のような血縁関係にない疑似家族であっても、社会の単位として現実に存在する単位を認めようとしない安倍政権であれば、「同性」および「(同性の)婚姻」の家族を国家の成立単位とすることは到底認め難いのだろう。「万引き家族」とは「美しい国」なる復古主義的(後述)な虚構に対する明確なアンチテーゼであるが、換言すれば、「万引き家族」で描かれた血縁関係にない疑似家族も社会の単位とする多様性は国際社会において共有し得るテーゼである。国際社会がこの作品を高く評価したのも道理だ。それも現実社会だからだ。

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自民党が2012年にまとめた憲法改正草案の第24条に家族の互助を義務とする内容の第1項が新設されている。
その第1項は、
家族は社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない

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日本会議の主張するような「親学」=「家族が大事なんだ」から家族主義の美風→大政翼賛・国体思想、それを支える復古的な家庭教育が安倍政権の考え方の基本となっている(拙稿「<家族主義の美風と大政翼賛>(自民党憲法改正草案第24条第1項)」。憲法改正草案の第24条にそれが反映されている。「社会の自然かつ基礎的な単位」という文言にあるように、「自然でない」とか「生産性がない」と「同性」および「(同性の)婚姻」を含む性の多様性(LGBT)に杉田水脈をはじめ次々と噛み付く者が現れるわけである。

家族が社会の単位とする以前に、個人が社会の単位であると憲法にははっきり書いてある(拙稿『「個人」か「人」か(憲法第13条)』)。家族主義から、性の多様性(LGBT)に争う事自体がおかしい。

(おわり)
posted by ihagee at 03:22| 憲法

2018年08月01日

憲法という新興宗教(稲田朋美衆議院議員・自民)



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稲田朋美衆議院議員(自民)は、保守系団体「日本会議」の都内の支部の会合に出席(7/29)。自身のツイッターに、支部長を務める弁護士について「法曹界にありながら憲法教という新興宗教に毒されず安倍総理を応援してくださっている」と投稿した。

これに対してネット上で「国会議員の憲法擁護義務に反する」などと批判が殺到。翌30日までにコメントを削除した。

稲田氏は毎日新聞の取材に「ツイッターに書くにはあまりに“誤解”を招きやすいなと思う。憲法を否定するつもりはまったくない」と回答。(日刊ゲンダイデジタル・2018年7月31日より)

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「誤解を招いた」とあたかも情報の受け取る側の理解力や解釈が悪いとし、発信した内容は棚に上げる。身勝手な発信の結果を「誤解を招いたとすれば謝りたい・取り消す」なる上から目線は与党議員の近頃の常套手段であり(麻生副総理の常日頃の妄言やLGBTに関する杉田水脈議員の発言ほか)、「とすれば」は「他人がそう言うのであれば」と卑怯である。自分でツィッターに書いておきながら「ツイッターに書くにはあまりに“誤解”を招きやすいなと思う」と思うのであれば、初めからきちんと文章にして然るべく発表すべきだ。

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「憲法を否定するつもりはまったくない」と稲田議員は言うが、2012年4月30日に靖国神社・啓照館で開催された「(稲田氏の実父)谷口雅春先生を学ぶ会」主催の「第6回東京靖国一日見真会」では、
「だいたい弁護士とか裁判所とか検察官とか特に、弁護士会ってとても左翼的な集団なんですね。なぜかというと憲法教、まぁ憲法が正しい、今の憲法が正しいと信じている憲法教という新興宗教(会場爆笑)がはびこっているんですねぇ。」と言っている。(Habobor Business Online / 2017.02.10記事より)

つまり、「現行憲法は正しくない」と言っているに等しい。憲法を尊重し遵守するのが法曹であり弁護士であるのに、その事自体が「左翼的な集団」とステレオタイプな政治の色眼鏡で見る。憲法を尊重・遵守できないのであれば、弁護士も議員もその職を辞するべきであろう。言った際から、自らの立場を否定することだと当人は自覚すべきだ。

現行憲法が正しいか否か、と「(宗教的に)信じる・毒される」こと、これらは憲法を尊重すること遵守することとは全く関係のないこと。もし憲法を尊重・遵守すること自体をそのように表現しようとするなら言葉が間違っている(悪意である)。言うまでもなく国民も国会議員も憲法を遵守することが求められ、その正否の判断は別のプロセス・次元のことだ。また、「(宗教的に)信じる」ことは憲法が何かしらの宗教の宗旨の一部でも明文化したならともあれ(イスラム国の憲法ならそうだろうが)、現行の日本国憲法と「憲法教・(宗教的に)信じる・毒される」ことは何の脈絡もない。

日本会議系の連中は、現行憲法が米国からの押し付け憲法であって、元から否定すべき代物と断じて止まない。その考えのためなら次元も脈絡も構わず「みっともない憲法」と憲法を見下すことに終始し「押し付け憲法・みっともない憲法」といったネガティブなイメージを世の中に蔓延らせることに余念がない。行政府の長(内閣総理大臣)ですら、憲法改正を唱え立法府(国会)の権限を侵すなど、憲法に縛られるべき国会議員の立場を逆転させ、憲法を縛りにかかるという立憲主義に反する言行を行う。これはもはや法治国家ではない。法を無視する国家の暴走であろう。

この手の現行憲法を貶め・尊重しない発言が頻発している。(拙稿『"「日本国憲法自慢」はやめた方がいいです" はやめたほうがいい』)

存在する限りは尊重し遵守することが先ずは求められるのに、その存在を粗末にし軽んじる。これは立憲主義を否定することだ。それどころか、憲法に縛られるべき者が憲法を縛りにかかる。「憲法泥棒(慶應大学小林節名誉教授)」が後を絶たない。稲田議員もその一人である(拙稿「説教泥棒・憲法泥棒」)。

「あまりに粗末にされ、軽んじられている憲法がかわいそうで仕方ない(小林節慶応大学名誉教授)」

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「憲法教・(宗教的に)信じる・毒される」は愚者の盲信というイメージ操作なのだろう。

(護憲は)「憲法を誇る」からけしからん、と彼ら(日本会議)は言わない。「誇る」というポシティブな姿勢は憲法尊重・遵守であり、それをまともに否定にかかるわけにはいかない。だから、「憲法教」「新興宗教」「毒され」「米国の押し付け」等々とあらかじめ憲法を「みっともない」とイメージ操作してから、否定にかかる。とても陰湿且つ卑怯だ

幣原喜重郎元首相は現行憲法の第9条の平和主義を国際社会で日本が率先して掲げることを「素晴らしい狂人」と言った(拙稿「憲法記念日・素晴らしい狂人」)。

「素晴らしい狂人(幣原元首相)」に一つとしてネガティブな政策はない。一点の曇りもなく晴々としている。国際社会が理想とし理念とすることに合致するからだ(日本会議は理想ばかりの非現実主義とバカにするが)。そして戦後、わが国は国際社会で堂々と(合法的に)その「素晴らしい狂人」を誇ってきた=平和主義外交に徹してきた。平和主義の国際貢献で日本は旗振り役を努めてきた。それは大変な外交努力を求められることだ。高度な政治力を発揮しなければならない。しかし、安倍政権になって、「積極的平和主義」なる二重話法(積極的=戦争)で、「普通の人」になること、すなわち、武力主義に傾斜した外交を志向するようになった。安倍政権下の政治力の劣化・政治の低脳化(拙稿『「政治の低能化の証し(小林節 慶応大名誉教授)」』)が、結果として「普通の人」に落ちるしかないのかもしれないが、悲劇である。

その背景たる、日本会議系の議員は「普通の人」になることを求めている。普通に戦争ができる国・軍拡競争に参加できる国になりたいと。「普通の人」のなれの果てが戦争であり、多くの国民が犠牲となり、その戦争の犠牲・惨禍の上に、偶然にも手にした(幣原喜重郎がそっと埋め込んだ)現行憲法の平和主義。この部分は米国の押し付けではない。これは「素晴らしい狂人」と呼ぶべき奇貨であり、今となっては諸外国のどこも欲しいと望んでももう決して手に入れることができない奇貨である。護憲は「憲法教という新興宗教に毒され」たなどという立場ではなく、幣原元首相が言う通り「憲法を誇る」という真っ当な立場だ。これが憲法を遵守し尊重するという国民の立場であろう。奇貨をわざわざ逸して何を得ようというのだろうか?その得るものは戦争であり死である。

(おわり)

posted by ihagee at 02:07| 憲法