2018年06月24日

「私が先頭に立って」(安倍総理)



「私が先頭に立って沖縄の振興を」(2018年6月23日沖縄慰霊の日、安倍総理大臣あいさつより)

慰霊の場に武力(基地の必要性)と経済(金目)を語る。戦争の犠牲者を悼み平和を祈念する場に彼は何をしに来たのだろうか?中学生の平和の詩の足元にも及ばぬ官僚の作文を読み上げ、挙句「私が先頭に立って」と言った。沖縄の首長(翁長県知事)のいる前で「私の存在が全てに優先されるのだ」と言っているかに聞こえる(「翁長知事が先頭に立って」・・と言うべきだ)。毎夜の利害者との饗応・美食で肥満し切った安倍総理と病をおして職を全うしようとする枯れ木のような翁長知事があまりに対照的だった。どちらが、県民に身命を賭して寄り添っているか一目瞭然の立ち居の違いである。

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「私が先頭に立って」と言い、その下では嘘とごまかしが横行する。「私が司令塔となって」(2018年4月22日拉致被害者家族会「救う会」での安倍総理のあいさつより)と言って、何の進展もないどころか、北朝鮮との話し合いさえ相手(金正恩)の決断次第と投げている。話し合いができないのは北が頑なな為で私のせいではないと言い訳するが、昨日まで北とは国交断絶すべしと国際社会で各国に呼びかけておきながら、"金正恩党委員長には、米朝首脳会談を実践した指導力があります"、と米国の顔色をうかがって豹変するような者を北が相手にしないのは当然であろう。拉致問題の「司令塔」がトランプ米大統領に司令をお願いする。双眼鏡でいくら覗いてもその先が見えない「塔」の上で「司令官」を気取ってみせる姿は滑稽を通り越して虚しささえ覚える。

「少子高齢化、緊迫する北朝鮮情勢、正に国難とも呼ぶべき事態に強いリーダーシップを発揮する。自らが先頭に立って国難に立ち向かっていく。これがトップである私の責任であり、総理大臣としての私の使命であります。」(2017年9月25日安倍総理記者会見のことばより)

自らの存在自体が国難に匹敵するのに、国難に立ち向かうと言う。「正に・・べき」と自分の中で牽強付会に理屈をこじつけ、だから自分が必要であると常に自分の存在に利するように言う。自己愛性人格障害である。そう思わない人々には指を立て「こんな人たちには負けない」と幼児のように敵意を露わにする。異なる意見に耳を傾けたり、理を以って話し合いを行おうとしない。全く関係のないことを一方的且つ勝手に喋り、相手に会話を成立させようとしない。作為的にコミュニケーションを遮断する。だから、アポなしのフリーな記者会見や一般大衆とのディスカッションができない。イヤホンを外して聞かないことにする。

つまり、あらかじめ台本がなければ言葉一つ頭の中で組み立てて繰り出すこともできないのかもしれない。先進国の首脳の中でこれほどまでにコミュニケーション能力が欠けた者は彼を置いて他にいまい。まともな会話を必要としないゴルフや会食といった饗応に時間を割いて、あたかも相手とコミュニケーションを密に行っているかに振舞っているようにも見える。

「私が先頭に立って」と言いながら、物事を汚く食い散らかしているだけ。その場腹が満ちれば「また次」と「先頭に立って」あたかも何かをやっているかに取り繕う。しかし、食い散らかした結果と経緯について何の検証のせず責任も負わない。負ったためしがない。これが本人曰く「リーダーシップ」だそうだ。

abe.jpeg


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秋の自民党総裁選で安倍総理は再選間違いないだろう。自分が自分を必要とするという徹底した愛僕者ほど、ある意味強い者はいない。当人は仙人か現人神の境地だろうね。責任論をぶつけることができない仙人や神様を神輿に担いでいれば、担ぎ手までも無責任にやりたい放題のことをする。A級戦犯も死せば神に祀り崇め奉るあの神社を中心に「神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す」と国会議員がわさわさと集まれば、恐い者なしなのだろう。何をしようとそれが愛国だと錦の御旗を翳せば、それに物申す者はまるで非国民かの扱いである(安倍政権以前はほぼ死語だった「非国民」なる嫌な言葉も安倍政権の下では復活し平然と使われる世の中となった)。戦前は昭和天皇を神とその神輿に担いだ。過去に学び決して神輿に担がれないと誓う今上天皇の賢明さに、彼らは仲間内から神輿に担がれる者を選んだ、それが彼というわけだ。愛国をもっともらしく騙りながら、その実は自愛ばかりの集団にすっかりこの国は乗っ取られてしまったようだ。それが証拠に彼らが仕出かすことは国のためではなく、自分に利する(カネの絡む)ことばかりである。

我々(少なくともそういう境地に居ない人々)こそ、巨大な内なる国難にいま遭遇している。「リーダーシップ」を発揮するのは彼・彼らではない。我々国民一人一人である。無思考・無批判(Brain Freeze)を決め込んではならない。「アンダーコントロール」などと言われてはならない。神輿を一緒に担いではならない。

Brain Freeze (multi-exposure), Rolleiflex SL66 with TTL meter finder / filmed by Rollei HFT Planar2.8 / 80, Kodak Ektar 100, Location: My home, some pictures are multi-exposed (Asaka-shi, Japan), February 14, 2016


(おわり)


タグ:沖縄
posted by ihagee at 10:26| 政治

2018年06月23日

サイアノタイプ - その37(引き伸ばし機)



サイアノタイプのプルシアンブルーは美しいが、紙の上に表わそうしている画像と時にアンマッチな場合がある。また、本稿のように引き伸ばし機とUV LED(弱い紫外線光)で長時間緩慢に焼いたプリントは印画紙に塗布した薬剤が完全に感光し切っていないのか、薄く仕上がる場合が多い。

全体の印象を変えたり、コントラストを付けたい場合、トーニングという処理を行う。

もともとのプルシアンブルーにこそ価値があるとする向きには邪道とされるが、私は積極的に用いている。太陽光の下でしっかり焼いたプリントでは強くその結果は出るが、本稿のプリントでもだいぶ印象が変わるものだ。

拙稿「Flexaret IV - 薔薇の花束ほか(モノクローム)」でのフィルム写真を使って様々トーニングを試みた。元の写真はフレクサレットIV(Flexaret IV)にKodak TRI-X400を詰めて2016年12月24日に撮影。レンズは80mmのBelar。

Meopta Flexaret IV (Belar F=80mm), Kodak TRI-X 400 partly transfer processed, Location: in my home (Asaka-shi, Saitama, Japan), December 23, 2016


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以下は、いずれもNIKON EL-NIKKOR 50mm F2.8で引き伸ばした。

先ずは、トーニングをせず、水洗オキシドール漬のみしたもの:

Cyanotype print made on an old photographic enlarger directly from 120 negative film without using a conventional contact printer and digital processing


水洗オキシドール漬後、ジャスミン茶でトーニングしたもの:

Cyanotype print made on an old photographic enlarger directly from 120 negative film without using a conventional contact printer and digital processing


水洗オキシドール漬後、ジャスミン茶とコーヒーでトーニングしたもの:

Cyanotype print made on an old photographic enlarger directly from 120 negative film without using a conventional contact printer and digital processing


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さて、タイマーを設定し十時間焼いてみた。太陽光の下で二、三分焼いたと同じ焼き目がついて、仕上がりの具合もコンタクトプリントと似ている。太陽光ではうっかり焼き過ぎて失敗ということが多かったが、本稿のプリントではその具合が緩慢なので焼き目を直接視認しつつコントロールできる点が良い。

その結果:

Cyanotype print made on an old photographic enlarger directly from 120 negative film without using a conventional contact printer and digital processing


1950年代の北海道積丹美国の夏模様を写したブローニーのネガフィルムが元。水洗オキシドール漬後、ジャスミン茶でトーニングした。その方が昔の写真には合っているような気がする。vif Art (B5 H.P. surface) に細部まで絵をのせることができた。この細部の再現性はデジタルネガであれば省略される情報の差だろう。なお、小穴式ピーク・引伸用ピント・ルーぺI型で印画紙面上のピントを合わせた。

(おわり)

posted by ihagee at 06:11| サイアノタイプ

2018年06月21日

一対一対応 vs. 藪の中



「物事を処理するにあたっては、丼勘定で捉えるのではなく、一つ一つ明確に対応させて処理することが大切です。たとえば、伝票なしで現金やものを動かしたり、現金やものの動きを確認せずに伝票のみで処理したりするようなことがあってはなりません。売掛金の入金チェックにしても、どの売り上げ分をどの入金分で受け取ったのかを個々に対応させながら一対一で消し込むことが必要です。また、生産活動や営業活動においても、[総生産]や[総収益]といった、いわゆる収益とそれを生み出すために要した経費を正確に対応させ、厳密な採算を行うことが必要です。」

京セラの経営理念ではこのように述べられている。稲盛氏の経営理念の底に「一対一対応」がある。それができない相手とは取引しないという。信用関係が築けないからだ。

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「一対一対応」から安倍政権の諸政策・国会での受け答え・国民への説明などを見てみると良い。
一つとして「一対一対応」をしていない。それどころか、対応させることすら不可能にしようと、物事を粉飾・虚飾・改竄し、嘘に嘘を重ねて相手を煙に巻く。今治の腹心の友も全く同じだと昨日の会見?で判った。

全く信用が置けない。それどころか、信用なるものを鼻で笑っている。

安倍政権および与党は本来国民から不信任をつきつけられるべき存在であり、私の周辺でも批判・非難の声の方が多い。しかし、さっぱり民意が反映される気配がない。官公庁の公文書を改竄してもそれは改竄ではない、とするが如く監督責任の一つも負わない政権、歴史を修正改竄したり憲法を恣意的に解釈したりと、思いのままである。

選挙制度という民主主義の根幹までは侵されていないと信じたい。しかし、ここまでめちゃくちゃをしても開き直り存在し続ける政権の姿を見続けていると、次第に疑問が湧いてくるのも仕方あるまい。この根幹を改竄されたらもうこの国は終いであるが、その点検はできない仕組みとなっているようだ。ブラックボックス化・神聖不可侵ということらしい。(拙稿「<蟻の一穴・アキレスの踵> 選挙の公正」)

スクリーンショット 2018-06-21 3.25.53.png

(一対一対応=投じた一票が正しく民意として反映されているか、点検すべきことである)

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「一対一対応」の一つ見ることができないこの国の今の有様(特に政治)は「藪の中」なのかもしれない(拙稿『「藪の中」考』)。神道政治連盟神道政治連盟国会議員懇談会(「神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す」と謳い、自民党を中心に国会議員283名が参加し、その一人が安倍晋三氏である)およびそれを裏で支える日本会議は、明確な論理や科学的に考察可能な思想体系を一切持たない宗教的な呪術・祭祀を元にする精神主義集団でもある。「藪の中」の住人であることも段々世の中に知れてきた。住んでいる世界が我々と異なる。「一対一対応」など全く必要としない彼らなりの原始的な神の国に住んでいるのだろう。この原始的「神国」説が今も政治教義として息づいていることは「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く」<森喜朗元首相の神の国発言>からも明らかである。

「『日本を取り戻す』ことは『大麻を取り戻す』こと」=「大麻=神宮大麻」=「神国」即ち、国家至上主義を理想と言って憚らない安倍昭恵夫人、この夫妻と取り巻きによる国家の私物化だろう(拙稿『「自由に反する恥ずべき考え方」=「美しい国(安倍首相)」』。

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「立憲主義を否定する国家観を持つ人が多い。戦争に負けた時に、間違った考え方を清算せず、害虫駆除しなかった。日本会議や青年会議所が害虫が増殖する巣になっている。「日本会議をゴキブリ扱い」と産経新聞に言われそうですが、構いませんよ私は。」(前川喜平氏)

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安倍政権の唯一の功績は、我々国民に「藪の中」を垣間見せてくれたことだろう。これが「美しい国」の実相であると。日陰者だったゴキブリが「藪の中」からごそごそと明るみに出ててきた。我々国民はその「藪の中」とゴキブリの姿を一匹づつ見ることができるようになった。安倍政権に感謝する。あとは、どうまるごと退治するかである。

(おわり)

posted by ihagee at 04:04| 政治