2017年05月31日

豚の独裁者(オーウェルの動物農場)



「現代は、あの農場よりは洗練されているような気もするけど、基本構造は全然変わっていない。豚じゃなくて別のものが入れ替わっているだけ。(宮崎駿)」




ジブリ美術館が紹介する1954年のイギリスのアニメーション映画『動物農場』が、ジョージ・オーウェルの同名小説を下敷きにしていることは周知の通りだが、動物農場も、その指導者からやがて独裁者へと変貌する豚も、厭というほど歴史はそれらの相同物(ホモログ)を繰り返している。オーウェルの同作品がアレゴリーとして現代に通用するのは、その底辺に「権力は腐敗する、絶対的権力は絶体に腐敗する(ジョン・アクトン)」という過去の経験(歴史)から帰納した普遍則があるからだろう。

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安倍首相の国家観は、その政権になってから成立した数々の法律や政策の端々に、市民の利益や主張を私益や私利私欲(エゴ)とみなし(沖縄辺野古の基地問題が象徴するように)、「公益及び公の秩序(自民党憲法改正草案での第13条)」を体現する国家を尊重すべきと、国家への義務を果たしてこそ人としての権利を認めてやろうという傲岸不遜さが見られる。さらに首相自ら、国会議員として憲法を遵守すべき立場を顧みず「みっともない憲法」とか「憲法に縛られるべきでない」と公言し「私が解釈すればそれが憲法である」と立憲主義を蔑ろにしてきた。恭しくその前に首を垂れる高潔なる彼らの大義は、現憲法とは別の賢所にあるらしい。

そして自民党改正憲法草案上では、個人が絶対的に存在せず、国家との相対でしか(さらに個人ではなく人としてしか)存在を認めようとしない、何が「公益及び公の秩序」であるかは国家が決め、国民はそれに従うべきとの国家主義観が見え隠れしている。外交で国際的地位を高めるという政治家に要求される能力の貧しさを弥縫するために、愛国心が国際的地位を高めることであるかの精神主義に傾く(「自国を愛さない人は国際人にもなれない」といった)ことは、教育現場における教育勅語の復活容認などでも顕著である。いくら愛国心があっても国際人になれないことは、安倍首相本人が示している通りで、「地球儀を俯瞰する外交」と言いながら交渉術を駆使し国際紛争の和解や調停に実績を未だ一つとして安倍首相は残していない。フォーブスがまとめた昨年の「世界で最も影響力のある人物」ランキングでは、安倍首相は37位と先進国首脳の中でも後塵に甘んじている。

その安倍首相が我々国民に向かって「アンダーコントロール」と言い放ち、表現・言論・集会の自由に物言わぬ圧力を加え、立憲主義や人権を軽んじる点も、国民から監視されることを嫌う証であろう。それでも足らないとばかりに個人の内心まで監視・内偵しようと共謀罪を成立させようとしている。

森友学園・加計学園問題でも政治権力が寄って集って告発者に陰湿且つ執拗な人格攻撃を加え社会的信用を剥奪しようとする。異なる意見もそれを発しようとする人ごと圧殺するブラック企業経営者のパワハラ手法を採用して恥じない。ブラックな空気を読んでか公務員までが権力側に不都合となる公文書を超法規的に廃棄しツジツマを合わせるようになる。廃棄されずとも公文書は海苔弁状態の開示が当たり前となった。

警察までがレイパーの犯罪を握り潰し、レイプされた女性の人権を無視する。公に顔を晒しプライバシーを捨てない限り社会に問題提起できないという状況は、レイパーやそれを放免した警察を含む公権力がさらに精神的にその女性にセカンド・レイプを加えるに等しい。「女性の輝く社会」なる政権のスローガンは白々しいばかりか、その裏では女性の人権を蹂躙する何か大きな力を働かせている(その力の在処について彼女は今回、問題の本質としていないが)。

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市民から「アンダーコントロール」されない政治権力というものは、その権力を構成するメンバー自らがやがて私益と独善を占めることになる。これがオーウェルの描いた動物農場であり豚の独裁者でありその豚友であり搾取に甘んじる他の動物たちだ。しかし、そのような動物農場の絶体権力は、絶体に腐敗・崩壊することを歴史は一つの例外もなく証明している。

「私が言うのだから、ありえない・絶体にない」と首相が自らの言葉を絶対化する現況は即ち、「他に言う者はない」という独裁に他ならない。その言葉自体が国民にとって議論させないという最大の圧力となっている。国連の特別報告者たちもその対象らしい。経済政策を自らアベノミクスと総称したことも、「私が言うのだから」と同じく国家経済の私物化(私がやるのだから)である。後世歴史家が評価として与えるタイトルを事前に自ら冠してしまうのだから歴史的に結果を伴わなくともアベノミクスである。「名を捨てて実を取る」ではなく、「名を先取りし実は取れても取れなくても良い」、なのだろうか。これでは単なる功名心。

実などまやかしで良いということか、白紙の試験用紙に前もって「安倍晋三君・百点満点」と書いておけば首相に恥をかかせるなとなる(内閣人事局が官僚人事の首根っこを抑えていれば、官僚も従わざるを得ないだろう)。適当にツジツマの合うような数字を官僚がどこからか繰り出してゴソゴソと書き込めば、2020年GDP600兆円達成なる満額回答的粉飾すら可能となる。安倍政権がアベノミクスについて客観的にその是非・成否を総括検証しようとしないのも粉飾・虚飾が最初から前提ならする必要もないことだろう。同様に、福島の事故原発を「アンダーコントロール」と安倍首相が国際社会に向けて言ってのけてしまった以上、首相に恥をかかせるなと、現場は何があっても「アンダーコントロール」で通すしかなくなる。虚飾・粉飾が横行して当たり前である。

答案一つ書いていない試験用紙に「安倍晋三君・百点満点」と書いて、それが嘘にならないように嘘をつくことしかできない、なるパーソナリティがこの人の政治の淵源ならばこれほど国民にとって不幸なことはない。振り返れば問題の積み残しばかりで何一つ答えがなかったと知るような暗澹たる将来が到来しないことを願うばかりである。

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自民党憲法改正草案では、
「すべての国民は、個人として尊重される(現行憲法第13条)」を「全て国民は、人として尊重される(改正草案第13条)」と改めることによって、国民は「絶対的に尊重される」から国家との関係で「相対的に尊重される」とする(拙稿『「個人」か「人」か(憲法第13条)』)。

動物農場のアニメでは、「すべての動物は平等だ」という当初の理想が、豚の独裁者によって「すべての動物は平等だ。だがある動物はもっと平等だ」と書き換えられるシーンがあるが、これに当てはめると、

「すべて国民は、個人として尊重される」を豚の独裁者が「全て国民は、個人として尊重される。だがある人はもっと尊重される」とさしづめ書き換えることにでもなるだろうか。その人とは国家(独裁者の豚)に義務を果たす(人権に搾取を許す)豚となる。小林節慶大名誉教授の言葉を借りるなら「国家が人の人格的生存を侵すのは国家の誤作動。国家が人権に対していくらでも条件をつけることができてしまう」ことまで許す豚となる。

「権力は腐敗する、絶対的権力は絶体に腐敗する」の通り、「国家が人権に対していくらでも条件をつけることができてしまう」絶対権力はいずれ腐敗・崩壊するのだろうが、動物農場のストーリーではそれまで待たずに、動物たちが蜂起(反革命)し、豚の独裁者に代わって人間が支配する農場に戻るという結末となっている。

ストーリーの結末までアレゴリーとして読めば、我々国民が豚の独裁者に対して声を上げる時が迫りつつあるということだろう。

(おわり)


posted by ihagee at 17:46| 政治