2017年05月09日

「'ヒト'という'種'の一員として」の戦争放棄(憲法第9条)



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(アルバート・アインシュタイン教授(ノーベル物理学賞)・バートランド・ラッセル卿(ノーベル文学賞))

戦場の実相というものを経験していない世代が大半となった。その経験していない世代が政治を主導し、日本国憲法第9条により行使できないとのこれまでの政府解釈を「集団的自衛権を限定的に行使できる」と変更した(2014年7月1日閣議決定での憲法解釈の変更)。

「紛争中の外国から避難する邦人を乗せた米輸送艦を自衛隊が守れるようにする(安倍内閣総理大臣)」「(原油輸送ルートの)中東ペルシア湾のホルムズ海峡で機雷除去(菅官房長官)」等々、内閣官房から種々解釈変更の動機付けが行われたことは記憶に新しい。

そして昨今の北朝鮮情勢についても脅威が増大したとし、安全保障関連法に基づき海上自衛隊のヘリコプター搭載型の護衛艦「いずも」によるアメリカ軍の補給艦防護(米艦防護)任務を開始している。

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現政権の想定する脅威とは、安倍総理自ら隣家の火事の喩え話で説明を済ませるような局地的且つ鎮定することが可能な次元に留まっている。

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つまり、紛争・戦争とは「局地的」なものという前時代的固定観念のままであり、勝者/敗者・善悪の二元論や核兵器によるパワーバランスといった均衡論も米ソ冷戦時代以来の古びた相対観念であり、現政権の唱える脅威は常にその範疇に都合よく収まっている。

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1955年の<ラッセル=アインシュタイン宣言>で予見されていた脅威、即ち、「人類に絶滅をもたらす」「最悪の結果」こそ、現在の脅威の実相ではないだろうか。核ミサイルのボタンが一度押されてしまえば、核の報復を止めるだけの確信の一つも政治家は持ち合わせていないのである。

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核ミサイルが飛び交う戦場がコントロール可能である筈がない。原発が標的にされれば「人類に絶滅をもたらす」「最悪の結果」はより現実のものとなる。

同宣言では「きびしく、恐ろしく、そして避けることのできない問題がある −即ち、私たちは人類に絶滅をもたらすか、それとも人類が戦争を放棄するか? −戦争を廃絶することはあまりにも困難であるという理由で、人々はこの二者択一という問題を面と向かってとり上げようとしないであろう。」とある。つまり、我々に突きつけられている究極の命題はアインシュタインの時代から「私たちは人類に絶滅をもたらすか、それとも人類が戦争を放棄するか?」の二者択一であり、その「人類に絶滅をもたらす」「最悪の結果」は現実となりつつある。

戦争を始めたら最後、勝者も敗者も存在せずただ人類という種がその他の地球上の生態系全てを道連れにして絶滅するという「戦争なる脅威」を我々は認識しなくてはならないだろう(戦争で標的となる「原発なる内なる脅威」も同様)。「戦争で戦う」(参戦)ではなく「戦争に戦う」(不戦)という認識がなければならない。

<ラッセル=アインシュタイン宣言>では「人類が戦争を放棄する」選択肢を挙げている。「特定の国民や大陸や信条の一員としてではなく、存続が危ぶまれている人類、即ち、'ヒト'という'種'の一員として」戦争を放棄するという意味である。換言すれば、「特定の国民や大陸や信条の一員」の立場でいる限り戦争は放棄できないということだろう。安倍晋三氏を含め政治家というものは悲しいかな「特定の国民や大陸や信条の一員」でしかない。

憲法第9条に掲げる平和主義を絵空事の理念と笑ったり嘲る人がいるが、「'ヒト'という'種'の一員として」戦争放棄(戦力不保持・交戦権否認)を選択したものと理解すれば、1955年の<ラッセル=アインシュタイン宣言>の命題への「面と向かった」答えではなかろうか。すなわち、1947年に幣原喜重郎が発案し(1928年のケロッグ・ブリリアント協定(不戦条約)が下敷きかもしれないが、米国側からの発案・起案という説(「みっともない」と改憲派が唱える根拠)は否定されている)<ラッセル=アインシュタイン宣言>で命題化される以前に戦争放棄を選択していたとは、驚くべき先見であり誇るべきことである。幣原喜重郎という人が一人の政治家つまり「特定の国民や大陸や信条の一員」という狭量な立場から脱却し、「'ヒト'という'種'の一員として」として人類の存続への責任を憲法第9条で明確にしたと私は考える。それが戦場の実相を肌身で知った者の開明であると信じる(拙稿「憲法記念日・素晴らしい狂人」)。

戦争をするよりも、しないと誓うことがどれだけ重い責任を果たすことであるか、我々はしっかり認識しなくてはならないその重責を世界で唯一憲法第9条にて課されている我々は「'ヒト'という'種'の一員として」大いに誇りとすべきである。もし、サルやクジラといったヒト以外の種目が我々と言葉を交わせたら、彼らにとっての種の存続からも憲法第9条の戦争放棄は当然だと言うことだろう。

ところが、<ラッセル=アインシュタイン宣言>で示された選択肢、「私たちは人類に絶滅をもたらすか、それとも人類が戦争を放棄するか?」の二者択一の前者に加担する方向で安倍政権は憲法を政治解釈し且つ改憲を目論んでいる。憲法に縛られるべき立場を逆転し憲法を縛りにかかり憲法第9条を形骸化しようとしている。

「'ヒト'という'種'の一員として」の責任にまで立ち返れば、「人類に絶滅をもたらす戦争」を放棄すると誓う憲法第9条こそが、戦争を防ぐ唯一の砦であることが判ろうものだ。政治的イデオロギーや宗教・民族といった立場では「テロとの戦い」といった善悪や勝者・敗者の構図に捉われたままで戦争放棄を選択できないだろうが、「'ヒト'という'種'の一員として」「人類に絶滅をもたらす戦争」と大局的に捉えれば、戦争放棄に反論する理由はなくなる。その大局的見地からすれば戦争とは取り返しのつかない生態系破壊でしかなく、政治的イデオロギーや宗教・民族は文明もろとも失われ、勝者を想定した戦争の大義すら意味を為さない。石原慎太郎氏は「座して死を待つ敗北主義」と憲法第9条の戦争放棄を激しく非難し交戦権を主張したが、そんな「敗北は受け入れない」とする戦争の大義すら「人類に絶滅をもたらす戦争」にあっては当然ながら無意味である。

アインシュタインは「第三次世界大戦でどのような兵器が使われるのか私は知らない。だが、第四次世界大戦は石と棍棒によって戦われるだろう。」という言葉を残し、次に世界大戦が起きれば文明の崩壊は免れ得ないと警鐘を鳴らしている。戦争を前提とした武装・武力行使そして改憲こそ文明の崩壊に手を貸すことに他ならない。「'ヒト'という'種'」は幸いにして互いに言葉を交わし対話する能力が備わっているのだから、その能力を担保し最大限発揮することこそ本来の政治であり外交であり、その能力が著しく劣化して良い筈がない

人と人が対話し交渉し調整する能力が、残念ながらわが国では著しく劣化しつつある。一部のメディアが煽動する嫌韓・嫌中意識に乗じ「日本国って素晴らしい・日本人は優秀だ」といった自画自賛・夜郎自大を繰り返すうち、他者との相対ではなく自らを冷静に分析する能力が衰え、「'ヒト'という'種'」という大局に拠った考え方すらできなくなりつつある。その劣化の象徴が安倍政権であろう

(おわり)


posted by ihagee at 19:00| 憲法

ガブリエル・レイ(Gabrielle Ray)- その7(ポストカード)


手元にあるガブリエル・レイ(Gabrielle Ray)のポストカード(オリジナル・いずれも1905年前後・ EPSON GT-X980でスキャニング):

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コロタイプ印刷(写真製版)のモノクロームのポストカードは、実物でないと美しさは判らない(上掲のポストカードのうち10枚が同製版印刷)。表現力において今もって他の印刷技術の追随を許さない製版技術であるものの、非常に手間がかかる上、生産効率性の悪さから文化財の再現といった特殊な用途以外は用いられることはなくなった。

印刷とはいえども最新のデジタルカメラでもプリントでも困難な表現の深み(デジタルのエフェクトなる偽装は論外)にすでに一世紀前のカメラとフィルム、製版技術は到達していたと知るだろう。

最高の製版技術で最美な女性を印刷したポストカードに切手を貼り、気の利いたメッセージを添えて最愛の人に送ることができた時代、漱石の目も楽しませたパントマイム劇が場末の劇場であろうと気軽に鑑賞できた時代、とは何と贅沢なことだろう。ヴァーチャリティばかりの産業技術の進展と精神的な贅沢さは反比例しているようである。

(おわり)


posted by ihagee at 00:00| ポストカード