2017年05月03日

<家族主義の美風と大政翼賛>(自民党憲法改正草案第24条第1項)





5月3日は憲法記念日。
『共同通信社は29日、憲法施行70年を前に郵送方式で実施した世論調査の結果をまとめた。日本が戦後、海外で武力行使しなかった理由について、戦争放棄や戦力の不保持を定めた「憲法9条があったからだ」とする回答は75%に上った。9条の存在とは「関係ない」は23%だった。9条改正を巡っては必要49%、必要ない47%で拮抗した。安倍晋三首相の下での改憲に51%が反対し、賛成は45%だった。(中略)家族の互助を憲法上の義務として盛り込むことには81%が「必要ない」とした。(東京新聞電子版2017年4月30日) 』

憲法改正是非について世論は拮抗しつつも(設問の内容が不明だが)、現行憲法第9条の歴史的役割について肯定的に評価する声は圧倒的に多いようだ。70年間、わが国が海外で武力行使をしなかったという事実は、憲法第9条を除いて説明することは不可能だろう。

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大多数が「必要ない」と回答した「家族の互助を憲法上の義務として盛り込むこと」については、神戸新聞NEXT(2017年4月30日)が『憲法で「家族」規定必要?自民草案に疑問の声』という記事を掲載している。「家族」「互助」「義務」を憲法に盛り込むことについて、「なぜ?」といった唐突感が一般的な受け止めかもしれない。「必要でない」理由は何かとはっきりとは言えないが何となく嫌な感じがするという程度の「なぜ?」なのだろう。その程度の認識でいると、家族主義が<美風>であるとイメージ操作されると我々は途端に受け入れてしまう危険性がある。これは「共謀罪」では拒否反応を示しても、「テロ等準備罪」と枕詞があれば簡単に納得してしまう民意の低さ・脆弱さと同じことで、我々はもっと真剣に賢くなければならないと思う。

「家族の互助を憲法上の義務として盛り込むこと」については、「家族や地域に責任が投げ返されている。『自助』を強調する流れは既に始まっており、24条改憲草案と軌を一にしている」といった意見のように国は社会保障の責任を家族に押し付けようとしているという解釈や、「家族が助け合うというのは、個人的には私も賛成でございます。しかしそれは道徳であって、道徳を憲法の中に持ち込むべきではないと思います(2013年6月13日衆院憲法審査会での河野太郎衆院議員発言)」といった解釈があるが、

私は以下に記すようにそれらとは異なった見方をしている

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自民党が2012年にまとめた憲法改正草案の第24条に家族の互助を義務とする内容の第1項が新設されている。

その第1項は、
“家族は社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない”

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家族の互助を憲法上の義務として盛り込むことについては、同じく草案の第13条に盛り込まれている「個人」の否定(拙稿『「個人」か「人」か(憲法第13条)』)と合わせて考える必要がある。なぜなら現行憲法の理念の核心は「個々の国民が個性を持った存在であり、かつ幸福に生きる権利を持っているという普遍的な考え(小林節慶大名誉教授)」であり、その考えが凝縮されている憲法第13条を見直し且つ家族の互助を憲法上の義務として盛り込むのが改正草案だからである。

個人として尊重される(現行憲法第13条)」を「人として尊重される(改正草案第13条)」と改めることによって、国民は「絶対的に尊重される」から国家との関係で「相対的に尊重される」とする。これは現行憲法の理念の核心の否定であるばかりでなく、「家族」を国家(「社会」に擬制している)と相対して存在する単位とし、その単位の互助(家族の構成員同士の互助だけでなく、異なる家族同士の互助も含むとも解釈される=後述)を「なければならない」と義務化しようとするのが憲法改正草案の第24条第1項であれば、「国家が人の人格的生存を侵すのは国家の誤作動。国家が人権に対していくらでも条件をつけることができてしまう(小林節慶大名誉教授)」<国家主義>への大転回であることに気付かなければならないだろう。

憲法改正草案の第24条第1項の家族の互助を義務とする内容には、「国を維持するためには自分に何ができるか」に基づいて<家族>を単位として国のために何ができるかを<義務>として課す考え方(自民党憲法改正草案起草者・片山さつき議員『私達の基本的な考え方』)がその底に横たわっているということである。



これは、憲法によって本来縛られるべきが「国家」であり「国家権力」であるのに、その憲法を改悪して、「国家」「国家権力」が「個人」の生存する権利を縛るという大転回(革命)を企てていることに他ならないだろう。「国家=国体・政体」という<国家主義的>図式があからさまになる。

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その図式は過去の暗い歴史の一点に明々白々と存在しており、我々はあらためてその図式を学習しなければならない。

例えば、

大阪朝日新聞「家族制度と選挙権」という社説(昭和15年12月7日)には、
『わが国特有の家族制度を尊重する建前から、大政に万人が翼賛する単位を家とし家長を通じて万民翼賛の臣道をつくすという主旨であり、その限りにおいて何人も異論をはさみ得ざるところであろう。(中略)すなわちわが国伝統の家族主義の美風を大政翼賛の部面に生かすのは、主旨において何人も異論を挟み得ざるところとして、これによって種々派生する問題に対し、あらかじめ十分の用意と準備を必要とする点を強調するのである。』



戦前(戦時下)の家族制度・家族主義についての公論が述べられている。「わが国伝統の家族主義の美風を大政翼賛の部面に生かす」ことが主旨であるということだ。これは上述の「国を維持するためには自分に何ができるか」(自民党憲法改正草案起草者・片山さつき議員)にある<家族>を単位として国(「社会」と擬制している)のために何ができるかを<義務>として課す憲法改正草案の第24条第1項の内容と極めて符号するものだ。

<国家主義><国体・政体>とその為の<家族主義の美風>が、いかなる結果を招いたのかは歴史が示す通りであり、戦後敢えて憲法に「家族の互助を義務として盛り込むこと」をしなかったのは、その過去の反省の上に立つからである。

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<家族の互助>が一つの家族の中の構成員同士の互助を越え隣同士の互助を表向きに、「万人」が翼賛するための国民統制のためにつくられた地域組織が<隣組>であり、

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国民動員体制の中核組織<大政翼賛会>であり、天下・全世界を一つの家のように解釈する思想が<八紘一宇>(自民の三原じゅん子議員が参議院予算員会において質疑とは無関係に「八紘一宇は日本が建国以来、大切にしてきた価値観である」と述べたことは記憶に新しい)



であった歴史を知れば、憲法改正草案第24条第1項の「家族の互助を憲法上の義務として盛り込むこと」は「大政に万人が翼賛する単位」としての<家族>をその目的に据えているのではないかと疑ってかかる必要がある。その<家族>に課される義務の最たるは<戦争>協力であれば、戦争放棄や戦力の不保持を謳う憲法第9条は邪魔だという理屈になる。

嫌韓・嫌中の偏執的ともいえる政治的スタンスから外交的努力の一つもせず、"外敵"と脅威を煽るだけ煽り、「テロの脅威」「核兵器の脅威」から憲法第9条は時代遅れ・邪魔だという空気を作り上げることに安倍政権は余念がない。

憲法改正推進を訴える超党派議連会合に出席した安倍首相は「憲法改正へ歴史的一歩踏み出す」と述べたそうだが、国民(立法府たる国会)が主体的に発動するならともあれ、行政府の長に過ぎない内閣総理大臣が率先して改憲を民意を得た政策の如く発表すること自体、三権分立無視の憲法違反(本人は自民党総裁として自党の政策綱領として言っているつもりだろうが・・)。憲法に縛られるべき者が憲法を縛りにかかる逆転に我々は余りに寛容に過ぎるのではないか?「歴史的」といいながら過去の「歴史」を勝手に忘れてしまう首相に憲法を語る資格は全くない。

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(「戦争に負ける」と言っただけで隣組に密告され治安維持法違反で父は3度も警察へ・作家 半藤一利氏(86歳)「過去は常に現在とつながっていて、断ち切れるものではない。歴史はうるさいからといって勝手に忘れてしまってすむ話ではない。」)

官邸がメディアを総動員し勝手に忘れるように世論を誘導(捏造)すれば、「家族主義の美風を大政翼賛の部面に生かす」こともいずれ公論となり、「国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。(伊丹万作「戦争責任者の問題」)」と、万人はまたも簡単に騙されることになるかもしれない。

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「家族の互助」をあたかも「美風」のように吹聴すれば、多くの人々は、それ自体は「良いことだ」とその風になびくことだろう。安倍政権・自民党はこの手の輿論づくりはとても周到だ。

その言葉の裏に「大政に万人が翼賛する単位を家」とすることまで「私達の基本的な考え方」と言い出しかねない自民党憲法改正草案起草者が存在することを忘れてはならない。

そして「これによって種々派生する問題に対し、あらかじめ十分の用意と準備を必要とする点」の通り、「特定秘密保護法」、「テロ等準備罪(実質、共謀罪)」を含む「組織犯罪処罰法改正案」、「緊急事態条項」などで万人の耳目ばかりか口も塞ぎ手足も縛る準備が着々と進められ、その進捗を如実に表すかの如く、報道の自由度ランキングは安倍政権下では歯止めなく落下している。これが安倍首相の理想とする「美しい国」なのだそうだ。

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「一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。(伊丹万作「戦争責任者の問題」)」

(おわり)

posted by ihagee at 05:53| 憲法

ガブリエル・レイ(Gabrielle Ray)- その3(エドワーズとの出会い)



1902年、リリック・オペラ劇場でのアニュアル・パントマイム劇“Little Red Riding Hood” (赤頭巾) の舞台の上の、キラキラと輝く金髪にハート形に縁取られくっきりと青い目をした女の子の魅惑的な愛らしさに、観客が思わず賞賛の声を上げていた。その声の先には優美な動きをしたかと思えば、開脚して足先が床に着かんばかりのダンスを演じる赤頭巾役のギャビィがいた。興行の成功は最初から決まっていたようなもので、幕間に誰もがこの無名のアーティストの名前をプログラムに探し、それが19才のガブリエル・レイ(Gabrielle Ray)であると見出したのである。これは彼女の輝かしいキャリアの幕開けでもあった。



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この劇の初日にイーストに招かれていた劇場支配人の一人に著名なジョージ・エドワーズ(George Edwardes)がいた。この日の幕が降りるやエドワーズはギャビィと、この公演の契約が終わったら、彼のロンドン・オールド・ゲイティ(Old Gaiety)劇場の“The Toreador” に出演中の人気女優ガーティ・ミラー(Gertie Millar)の代役となる旨の契約を交わした。ギャビィはミラーと4才年下で顔立ちが非常に似ていたことも幸いした。

ジョージ・エドワーズ(George Edwardes 1852-1916)は自らミュージカル・コメディを創作することはなく支配人として辣腕を振るったが、1890年代から1918年までのギャビィの全盛期に亘って、彼はゲイティとディリー劇場の支配人を勤め、その他多くのウエスト・エンドの劇場の公演を催し、地方の劇場を巡る旅回りの一座を16ほど抱えていた。音楽、見世物、そして最も重要なこととして、その時代の真のスーパースターとなる魅惑的な女性という3つの要素ごとに、必要とする人間を選択し、ロングランと興行収益を約束することにおいて彼は卓越した能力を持っていたようだ。ギャビィはスーパースターとなるべく選ばれた一人だった。

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“The Toreador” の一連の興行が終わるや、ゲイティ劇場が改修の為に閉鎖された為、エドワーズはギャビィをロンドン・アポロ劇場に移し、432回もの公演回数でロングランとなった”The Girl From Kay's” でレティ・リンド(Letty Lind)の演じた役(準主役)を彼女に引き継がせた。



ギャビィは役を巧くこなしたばかりでなく、愛らしさとダンスの驚くべきしなやかさは彼女の成功を確実なものにした。

(つづく)

posted by ihagee at 00:00| ポストカード