2017年05月02日

ガブリエル・レイ(Gabrielle Ray)- その2(下積み時代)



ミュージカル・コメディの舞台俳優として賞賛を浴び、その名声の頂点においてパリ・タンプ誌(タイム誌)に英連邦で最も美しい女性と書かれ、当時世界で一番多く写真に撮られたガブリエル・レイ(ギャビィ)こと、ガブリエル・エリザベス・クリフォード・クック(Gabrielle Elizabeth Clifford Cook)は1883年4月28日にマージー川南岸の小さな町ストックポートに生まれる。この町はイギリスの帽子産業の中心地として名高かった。


(帽子のフェルトの製造過程で使われる水銀で中毒になる職工が多かった<マッドハッター>)

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1893年、子役の一人としてギャビィはロンドン・オックスフォード通りのロイヤル・プリンセス劇場のミュージカル”Miami” で初舞台を踏んだ(当時10才)。このミュージカルは11公演しか続かず興行的に不成功に終わった。

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(ロイヤル・プリンセス劇場)

翌年、エレファント&キャッスルのニュー・ケント通りのガス灯の燈る1400席の劇場で興行されたF.C. Burnand原作の”Proof; or. A Celebrated Case” で、荒くれの主人公の娘役を演じる。ここは酒場が併設されており労働者の野次や歓声が飛び交う場末の劇場だった。役者に愛想がないと途端に客席から汚い言葉が浴びせかけられ、11才の少女にとっては厳しすぎる試練だったことだろう。

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1899年から1902年にかけて、ギャビィはジョージ・エドワーズ(George Edwardes)に見出されるまで旅回りの一座の団員として地方を巡っていたようだ。

それは1899年にはロンドン西部ハマースミス(Hammersmith)のリリック・オペラ劇場でパントマイム劇 “Breath of the Morning in Sinbad the Sailor” に出演したことに始まる。





この劇場の支配人はジョン・イースト(John East)で彼の垢抜けないパントマイム劇にはスターとなることを夢見る数多くの若手の役者が出演しギャビィもその中の一人だった。初演には多くの劇場支配人が招待され、その中の一人ベン・グリート(Ben Greet)の目にギャビィのダンスが留まり、彼のいくつかの旅回りの一座の一つに加えるべくギャビィと契約を交わした。ミュージカル・コメディ”The Belle of New York” のマミー・クランシー(Mamie Clancy)役である。ギャビィは16才だった。この後、ギャビィはグリートの別の地方巡業に加わり、Harry B. SmithとLudwig Englander共作のミュージカル・コメディ “The Casino Girl” でドリー・ツウィンクル(Dolly Twinkle)役を演じる。



1902年の年の瀬にギャビィはハマースミスのリリック・オペラ劇場に戻ってイーストのアニュアル・パントマイム劇 “Little Red Riding Hood” (赤頭巾)で主役を演じた。

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夏目漱石がロンドンに滞在していたのも同じ時期である。漱石の芝居見物は一流劇場よりも場末の劇場が多かったようで、正装など必要のない労働者の集う所であれば気安く足を運べたからかもしれない。

「夜田中氏トDrury Lane Theatre ニ至ル Sleeping Beauty ヲ見ン為ナリ。是ハ pantomime ニテ去年ノクリスマス頃ヨリ興行シ頗ル有名ノ者ナリ。其仕掛の大、装飾ノ美、舞台道具立ノ変幻窮リナクシテ、、、(略)」(1901年3月7日の漱石の日記より)

パントマイム劇を観たとある。歌やダンス、アクロバット、滑稽などが加えられた大がかりで華美な舞台装置を用いたパントマイム劇に漱石は感興を覚えたようだ。三遊亭圓遊(初代)のステテコ踊りが大好きだった漱石はパントマイム劇に「心臓が肋骨の下でステテコを踊りだす」(「吾輩は猫である」)愉快さを感じたのかもしれない。


(着物姿のギャビィ)

もし、漱石がギャビィを舞台に発見していたなら英国一美しい赤頭巾少女のステテコ踊りに一筆を献上したことだろう。

(つづく)

posted by ihagee at 18:50| ポストカード