2016年04月22日

立ち位置を知ること

先日、世界報道自由ランキング(国際ジャーナリスト団体「国境なき記者団」)で日本が72位と評価された。安倍政権下では経年で順位が下がっている。

この順位に菅官房長官は即座に「どういう基準、判断か全く承知していないが、わが国で表現の自由、報道の自由は極めて確保されている」と反論した。

「どういう基準、判断か全く承知していない」とは、国際ジャーナリスト団体「国境なき記者団」とは何者?と無知無関心を国際社会に発信したに等しい。「全く承知していない」と言うこと自体、日本を代表して聞く耳も持たないということである。また「わが国で表現の自由、報道の自由は極めて確保されている」と言うのであれば、逆に「どういう基準、判断」で「極めて確保されている」と断言するのかを記者たちは官房長官に聞き返すのが健全なジャーナリズムというものだが、そう質問できないこと自体が逆にこのランキングの信ぴょう性の高さを証明している。

時を同じくして、国連・表現の自由調査官デビッド・ケイ氏(国際人権法学者)が来日し、特定秘密保護法や政府の圧力などで、報道の独立性が重大な脅威に直面していると警告し、政権と癒着構造にある記者クラブ制度の廃止を求めた。「自分の放送法の解釈に従わない番組があることを、オフレコ懇談で批判したと聞いた」と国連調査官が菅官房長官を名指ししているにも関わらず、当人や関係者に事の真偽を確かめようとしない記者クラブである。この点を以てしても記者クラブ制度を廃止すべきとの言は正鵠を得ていることを証明している。
(安倍政権は「全く・・ない」「ありえない」「極めて」と全否定の言い方が常套化しているが、まるで北の首領様かブラック企業の経営者の言葉である。国際政治や外交上、英語でそのまま国際社会に発信すると禁反言として言質をとられるのでこういった感情に任せた物言いはやめた方が良い。)

斯様に日本という国は、内側から見る場合と外側から見られる場合で立ち位置が大きく異なる。

国際社会から見た我が国の立ち位置を一般国民に知られたくないとすれば、外からの情報を入口で遮断する必要があるのだろう。その通り、これらの話はさしてニュースバリューがないかの如く主要メディアではまともに扱われなかった。その代わりに一般大衆には「日本ってこんなに素晴らしい」「日本人ってこんなにすごい」と外国人観光客に言わせては自画自賛・夜郎自大の立ち位置の心地よさを啓蒙することに余念がない。

熊本・大分の地震で多くの被災者と甚大な被害が出ている中で、最高責任者を自認する安倍首相の関心事はゴールデンウィーク中の訪欧訪露のようである。激甚災害指定がされた新潟県中越地震を上回る規模の地震発生回数であるにも関わらず、官邸が熊本県に激甚災害指定を渋るのもその場合の緊急対策本部の陣頭指揮に首相が縛られては外遊ができなくなるとの邪心があるからだろう。喫緊の災害対策費が「23億円」で同じ日にパナマへのモノレール建設円借款「2800億円」を決めたという。そこからも地震被害を過少化して河野太郎防災担当相の責務に留めたいとの政治的思惑が透けて見える。それにしても他国のモノレール建設の方が熊本県民の損壊した無数の住居よりも喫緊課題なのであろうか。訪欧・訪露も伊勢志摩サミットでホストとしてのプレゼンスを示すために予め国際政治に露出しておこうという魂胆なのかもしれぬ。災害対応では悲しいことに彼の尊大な名誉欲は満たされないようだ。

安倍政権(2次・3次)の外遊はのべ訪問国・地域数にして87と、ほぼ隔月の如くであり、政治日程だけではなく経済団体を引き連れたトップセールス(商談)も数多く含まれている。商談の呼び水となる巨額な円借款も含め、つまるところ税金で原子力産業や軍事関連産業など特定の利益集団に専ら便宜を図っているのである。「ジャパン・バイ」と行った先で叫び、国際社会にしきりに露出する安倍政権であるから、さぞや欧米のメディアでは安倍首相や日本が話題かと思いきや、それらに関連する記事はやたらと少ないのはどうしたことか。アベノミクスなるスローガンも欧米の紙面から消えて久しい。外遊する意味があるのか問う記事すらない。つまりジャパン・スルーである。嘘だと思ったら、ネットの電子版で欧米主要メディアのトップニュースを検索してみると良い。日本関連の記事は悲しい程少ないのである。

東洋経済オンライン版で、大前研一氏が「国内メディアだけ見る人は危ない」という記事を上げている。

国際的視点に立てば、日本を代表する企業ですら、そのプレゼンスは「その他」に分類される程低いというのである。いずれにせよ、国内メディアでは決して「その他」であることは書かない。「日本のアベノミクスを世界のアベノミクスへ(安倍首相)」などと言い出したようだが、ナチス政権下のドイツ国歌「ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれこの世のすべてのものの上にあれ」(現ドイツ国歌からは公式的に削除されている)の域に達している。アベノミクスがG7諸国の共通項になる筈もなく当然の如く安倍首相は「その他」扱いである。それにしても、自分の立ち位置が日本どころか世界の中でも見えていないこの人の脳内お花畑さには唖然とする。

大前氏は「世界における競争力をどうつけていくのか?」という視点から、「世界全体を眺め、今の日本を世界と比べ」「自分の頭で考えていくことが非常に重要」と結んでいる。つまり、自分の立ち位置は自分で判断せよということなのだろう。しかし、競争力を日本国内から世界に広げたところでそこにも限度がある。資源も市場も所詮地球の大きさしかない。だから、大前氏の言う「世界における競争力」という欲望を垂直軸にする思考もいずれは通用しなくなるだろう。それすら<コップの中の争い>である。<コップの中の争い>ゆえプレーヤーがひしめき合うといずれは大前氏の口癖の「ガラポン」ではないが、局地的な軍事紛争・戦争を期待する者も現れる。奈良の若草山の野焼きで一旦焼き尽くして新芽を期待すると同じ。焼かれるは雑草ならぬその地の一般庶民。朝鮮戦争の特需が戦後日本の高度成長経済の礎を為したと同じく、アベノミクスにはその背後に硝煙のきな臭さが芬々と漂っている。

欲望を原動力とする社会経済の中で日々競争をして、ふと立ち止まって何の為に?と自問し「競争のため」と自答するのであれば、これは強迫観念でしかない。個人で言えば何かに追われているという幻想から他人を殺めたりする麻薬常習者と同じである。集団社会で言えば欲望の極みは死の商人(軍事産業)であり紛争・戦争でしかない。

ナマケモノという南米原産の動物がいる。餌をほとんど取らずのっそりとあまり動かないので動物園では人気のない部類である。事実、ヨーロッパに紹介されたその昔は、風から栄養を摂取する動物だと考えられていた。近年、ごく少量の食物摂取(1日に8gほどの植物)でも生命活動が可能な基礎代謝量が非常に少ない稀有な変温動物であることが判ってきた。英語名Sloth は、怠惰、ものぐさを意味するが、どうしてどうして、地球環境に限りなく優しい動物なのである。「欲望」や「競争」から最も遠い存在でありながら、一万年の昔から今日まで種が存続している。彼らの生命の原動力は「ストック(蓄え)」である。蓄えて少しずつ生命活動に用いる術に長けている。

アベノミクスの経済原理とは「ストック」の反対の「ストックのフロー(流動)」の極大化にあると言われている。前者をミクロとすれば後者はマクロである。社会資本(農地やコミュニティ)や金融資本(預貯金)の壁を取り払ってため込まずに使い続け、燃やせるものはどんどん燃やして経済活動の糧にしようという考えである。経済の基礎代謝増大=経済活性ということ。本来は虎の子(ストック)の国民年金の原資まで取り崩して「運用」なる官製相場の焚き木にしている。原発に至っては国民の生命・財産まで焼(く)べようとする。軍事紛争や戦争による特需まで算段する。そんな貪欲な経済圏(TPP)を切望して止まない。基礎代謝量を増大させればその活動に応じて得るものも大きいが、逆に少しの餓えでも一蓮托生、地球の冬の時代で真っ先に死滅した肉食巨大恐竜と同じことになる。人間に置き換えてみれば、基礎代謝量の大きい若い人ほど、ガンに罹ると一気に症状が進むが、代謝の少ない高齢者ではその進み方は緩慢となる。すなわち、活性化というハイリターンの裏に早逝・即死というハイリスクが潜んでいることになる。ハイリターンもハイリスクも求めなかった時代、一億総中流意識の時代、終身雇用が当たり前の時代、サラリーマン諸氏はそこそこの給料であってもある程度人生の将来設計を描くことができたからこそ、家を買い子供を産み育てることもできたが、基礎代謝量の増大した現今の博打的な経済下では非正規・有期雇用が常態化し10年先の将来さえ見通すことは困難である。少子化は当然でありシェアハウスで雨露をしのぐ若者が社会の日常景色となってしまった。生きる・暮らす・働くという基本すら脅かされている。非正規雇用ですら「職業選択の自由」と雇用失政の責任すら雇われる側の「自由選択(「自らの意思で非正規雇用を選択している」)」に転嫁して平気な政治・経済である。経済(経世済民)とは名ばかりで、民を濟(すく)う(済民)はないがしろにされている。済民とは、庶民のかまどの煙の上がりを心ある為政者は見るというのだ。<民の竈(かまど)>、<民の炊煙(すいえん)>という言葉が消えて久しい(拙稿「炭火アイロンに想う」)。

「原発止まれば江戸時代」と脱・廃原発に異を唱える人々がいる。江戸時代がさも悪いかの如くである。しかし、今日の日本の社会・文化のオリジナリティの多くはこの江戸時代の産物である。鎖国の下「ストック」を元にするミクロ経済原理であっても、社会生活上の基礎代謝量を少なくする知恵があった時代のようである。足るを知るが第一の富であって、慎ましくも内面は豊かに生きる術を心得ていた時代である。その片鱗はいまも地方のコミュニティに残っている。経団連会長もかつてはメザシを馳走としたものである。

そして、上述の<コップの中の争い>から一歩離れて、「ストック」を元にする経済社会を見直そうという国際的な動きがある。その先頭に立つのはブータンという小国であり、その国を率いるは若きワンチュク国王である。国民総幸福量(Gross National Happiness, GNH)という、国民総生産 (Gross National Product, GNP) や国内総生産 (GDP)とは全く異なるベクトルは、この小国の国際社会でのプレゼンスを高めている。GNHには様々批判や反証があるが、グローバルスタンダードへのアンチテーゼとして確固とした考えであることは間違いない。ワンチュク国王はGNHの遺伝子は日本にあると言う。日本の立ち位置を聞くべきはノーベル経済学受賞者などではなく、この人かもしれない。

そして、ナマケモノである。ナマケモノ倶楽部というGNHをテーゼとする環境-文化NGOが日本にある。彼らの目指すはナマケモノに学ぶ低基礎代謝社会経済である。単なる理想やユートピアではなくその具体的な考え方や生活術を学ぶコミュニティである。自らの立ち位置を地球環境との比較で先ずは決めること。立ち位置を問うも問われるも、政治でも経済でも欲望でも戦争でもない点に、日本の過去(江戸時代)と将来が妙につながるのである。ムダに資源を消費せずに蓄えを次の世代にしっかり残す。そんなアイデンティティを秘めたナマケモノという動物がトレードマークである。世界一少子高齢化が進むとされる我が国。老人国家には老人なりの低い基礎代謝に見合った生き方もあると私は思う。目新しくないが長くずっと使い続けることができる商品やサービス、それらをメンテナンスする仕事は老人の生き方にも通じる。そういう社会・経済システムがあっても良い。それらは不幸せかと言えばそうではない。そういう物差しを持つ国が世界の中にあってもいいじゃないか。老若男女<一億総括用>とコップの中の争いに玉砕覚悟で加わることなく、<老人国家>であることを国際社会に敢えてカミングアウトし、身の回りの小さなコミュニティで倹しく(つつましく)も長く循環機能する社会・経済を目指すことが日本には最もふさわしいのではないだろうか?

追記:
『NHKが熊本地震発生を受けて開いた災害対策本部会議で、本部長を務める籾井勝人会長が「原発については、住民の不安をいたずらにかき立てないよう、公式発表をベースに伝えることを続けてほしい」と指示していたことが22日、関係者の話で分かった。識者は「事実なら、報道現場に萎縮効果をもたらす発言だ」と指摘している。』(毎日新聞・電子版4/23)

------
「公式発表をベース」とは一体いかなることか?
公式非公式含めて、様々な観点、情報ソースを並べて、受け取る側の考えに委ねることすら許さない。
「不安をいたずらにかき立て」とは一体いかなることか?
視聴者などは、考えもなくオロオロと右往左往する烏合だと上から目線で見下す傲慢な発想である。独自のソースにまでアクセスし、多面的複合的に報じてこそ健全なジャーナリズムである。そんなことで不安になる程、世論は脆弱でも無知蒙昧でもない。原発問題は「危険性」を前提に管理すべきことであって、「笑っていれば放射能は来ない」に代表される「安心・不安」といった情緒や心理で管理すべきことではない。先の大前氏の記事にもあるが、2014年に起こった韓国の旅客船「セウォル号」の沈没事故で船が傾いてどんどん水が入ってきているのに「部屋の中にとどまってください」というアナウンスに従ったまでに大勢の乗客が亡くなった。このアナウンスというものが大抵、公式発表なるものなのである。国策たる原発について不都合ほど公式にならない。福島の原発事故で「実害」を「実害」と報道せずに「風評被害」とばかりに心の問題で片付ける悪しきマスメディアの態度である。

籾井流の考えに従うなら、NHKは今日から報道機関と名乗るのやめて、電通あたりと同じく政権側広告機関ないしは総務省方広報機関に宗旨替えした方がよろしい。

それにしても、世界報道自由ランキングが落ちたというのに、NHKともあろう日本を代表する報道機関の長が敢えて国際ジャーナリズムに対して挑戦的な発言をするとは!毎日新聞社もこれを報道するのであれば、識者の言など借りずに、毎日新聞社の社論なり担当記者・主幹による署名記事にてジャーナリストとして矜持を見せるべきである。腰が引けている。

(おわり)
posted by ihagee at 19:03| 政治

2016年04月19日

「運命でかたづける国民性」

「運命でかたづける国民性」と先日のブログで述べた。

自然災害の範疇であれば、社会的に許容せざるを得ないリスクというものも存在するだろう。火山・地震・活断層・台風など。しかしそれらを「運命」とあっさりと住民に諦めさせるならそもそも政治も行政も要らない。運・不運でかたづけるなら神仏の世界である。

自然災害ではなく、人間社会の範疇でのリスクというものも存在する。中には許容せざるを得ないリスクもある。それらは社会生活上許容の範囲にあり管理できるリスクである。自動車に乗れば事故に遭遇するリスクもある。喫煙すればガンになるリスクもある。それらは個人レベルでも用心すれば回避できるリスクである。

原発が管理できないリスクを抱えていたことは、先の福島の原発事故で明白となった。そのリスクは社会生活上許容できる範囲をはるかに超えている。ドイツでは社会倫理上の問題と捉え、脱原発に決した。

日本では福島の原発事故に遭いながら、その原発をあたかも自然災害の範疇の「リスク」や人間社会の範疇の「リスク」と同じ扱いで受け入れろと言う人々もいる。しかし個人レベルで用心すれば回避できるリスクなどでは到底ない。いったん事故を起こせば人智を超えて数百年のオーダーで将来世代に負の連鎖を残す。自然災害の範疇なら神仏かもしれないが、原発を置いたのも迎えたのも人間である。なのに、原発には常に安全なる「神話」がついてまわる。あたかも神仏がいるかの如く神聖不可侵なのである。「神話」の下で人間社会の「リスク」が神仏世界の「運命」にスルリと化ける。「運命」なら仕方ないと。信じるしかないと。それは、神風が吹くと為政者が国民を洗脳した挙句「命の尊さまで、運命でかたづける国民性が、特攻隊を作り、隊員は文句も言わず死んでいったのである。」と同じである。原発再稼働とは人間社会が神や仏を騙って(神話)作り出した奇天烈な運命論であり神風思想であり盲信である。しかしいざとなって犠牲になるは常に一般庶民である。最高責任者と自認壮語する者ほど、真っ先に責任を放棄して逃げ回る。満州の地で棄民の憂き目に遭い命からがら本土に逃れた父は岸信介をそう評していた。A級戦犯以前に同胞を裏切り見捨てた原罪についてである。その孫が逃げない訳がないだろう。

しかし、原発を置いたのも迎えたのも人間である。神仏ではないし「運命」でもない。仕方ないものなどでもないし、それで過酷に死ぬことはあっても決して神風など吹かない。信じるにも値しない。つまり、ドイツで考えたと同じく、ひとえにこれは人間社会における社会倫理の問題である。メルケル首相は社会倫理を経済の天秤にかけなかった。社会倫理とは相対ではなく彼らにとって絶対規範なのである。日本ではその絶対的な観点がごそっと欠落し、奇天烈な運命論・神風思想が跋扈している。

石原良純氏には社会倫理の問題ということがわかっていないようである。原発も「運命でかたづける」つもりなのかもしれない。東日本大震災に「天罰」と言い放った親にしてその子である。地震も火山も原発事故も一緒こたに「運命でかたづけ」られてはたまらない。「収束」という言葉のない原発事故は火山や台風などと同列のトラブル(「ワン・オブ・トラブル」)で済まないことすらわかっていないようだ。

追記:
人間の所業を神に奉り上げて崇め、絶対権力化するが原発である。町工場が法律に反して廃液を河川に流せばその責任者は法律で罰せられる。その工場は社会から放逐される。ところが、原発は大事故を起こして膨大な国土を汚染しようがそこで暮らす人々やコミュニティを破壊しようが法に問われない。一般社会の法の下での産業事故ではなく、あたかも神の所業による「運命」として受け入れるように、神の代理人にでもなったつもりの政治家・経済人・マスコミ・官僚が我々を恫喝する。「死の街」「死の灰」と素直に眼前の有様を口にする者を罰し、「笑っていたら放射能は来ない」とか「原発なければ江戸時代」と宣う。地震や火山ですら「原発は安全」と地の神、山の神になったかの如くご託宣である。仕事と暮らしを守るのが経済であり政治であり行政であるのに、彼らはそれらを破壊することに何のためらいもない。将来世代の財布からごっそりカネどころか国土まで奪い取って「今さえ良ければ」がこのご利益の神様に仕える連中の行動規範である。

東日本大震災以来、相次ぐ地震・洪水など天変地異で日本のいたるところ仮設住宅、そして溶け落ちた核燃料の在り処さえわからない事故原発、その周辺には破れて草が生え出した放射性廃棄物のフレコンバックが野ざらしにされているのを横目に、「東京には影響は及ばない」「アンダーコントロール」と首都大開発と利権に血道をあげ、そんな不遜な動機の東京五輪である。

「おもてなし」とかで海外からの観光客が増えた。寺社仏閣を訪れる人々も多い。そんな中で「靖国神社の神様は?」と問われて、「軍人です」と答えると欧米からの観光客は一様に驚く。ロシアの人は「レーニン廟みたいなもんかね?」と言う。畏怖・信仰の対象が軍人なのである。いや、神になったのだから軍神なのである。平和主義国家と言いつつ軍神を裏で崇める。先進諸国にそんな国はない。ロシアですらレーニンは埋葬すべきだとの世論が今や大半になった。

死者まで神に仕立てて、七生報国とばかりに政治的に使う。その社に首相が仕え行動原理がそこにある限り、神がかったこの国の底気味の悪さは、ある種神がかった首相と同じく、やはり国際社会では共有されないのである。「二度と過ちは繰り返しませんから」と核は廃絶と叫ぶのに国は被曝者とは言わず被爆者と言わせ、核を原子力と言い換えさせる。原子力に言い換えて人々の命や暮らしを供えものとして捧げ「過ちなどありません」と詭弁を弄してこれを守る。原発にもどうやら靖国と同じ七生報国の神がいるようだ。

------

石原良純 原発の巨大地震対策をめぐり玉川徹氏と対立(livedoor NEWS)

18日放送の「羽鳥慎一モーニングショー」(テレビ朝日系)で、石原良純が、原発の安全対策をめぐって玉川徹氏と激論を交わす場面があった。

番組では、京都大学防災研究所教授の橋本学氏が、過去に日本で起きた地震を解説し、今後地震が発生する危険性が高い地域について論じていた。

この話を聞いていた石原は「心配するのはあたりまえなんだけど」と前置きして、「過度に反応するかって…僕らはここで暮らしていくしかないわけなんで」と異議を挟んだ。

コメンテーターの玉川氏は「個人個人だったら、自分たちで備えましょうって話だし」「あんまり過度に心配してもって話もあるけども」と石原の意見を一部肯定する。

しかし玉川氏は、愛媛県伊方町の伊方原発が、活断層の近くに位置することを指摘し、「(地震が)来ないって前提でやるのか、来るって前提でやるのか。全然話が違うんです」と警鐘を鳴らした。

すると石原は、壊滅的な被害を出すとされる箱根山の巨大噴火を例に出し、「それを考えて暮らしていくんですか?」と、過度に未来の災害を意識することを否定する。

さらに石原は「10万年に1回の(箱根山の)巨大噴火が起こったら原発どころの騒ぎじゃないですよ。原発もワン・オブ・トラブルになりますよ」と独自の見解を述べた。

この意見に、玉川氏は「そうですか?だって住めなくなっちゃうじゃないですか。何十年って住めないって地域が現れてるじゃないですか。福島に」と声を荒げて反論していた。

(おわり)
posted by ihagee at 03:16| 原発

2016年04月18日

父の日誌(神戸淡路大震災に際して)

父の遺した日記をめくる。あの日もこの国では大地震が発生していた。

「平成七年二月八日
平成七年一月十七日午前五時四十六分、関西地方を襲った大地震は、その後の調査で震度七という史上希な揺れが観測され、死者五千三百名、負傷者二万名、焼失並びに倒壊家屋十五万軒、避難所で生活している人が二十八万人という大災害をもたらした。
ただ、この震災で関西在住の親戚が一人の怪我も無く、家の倒壊も免れたことは不幸中の幸いであった。
何故このような大きな災害になったのか時間の経過と共に解明がなされてきている。

一、淡路島から神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市の下を走っている活断層で発生した直下型地震であったため、横揺れと同時に大きな縦揺れが起こり、今まで耐震設計では考えていなかった縦揺れと震度七という激しい揺れが構造物を破壊した。
二、被害の大きかった神戸市は六甲山と海に挟まれた狭い地域に日本の東西を結ぶ幹線道路、鉄道が走り、人家が密集していたこと。
三、関西地方には大きな地震はこないとの思いが自治体や住民にもあって普段の防災に対する対策が欠けていた。
四、政府をはじめ行政の危機管理能力が低く、初期の適切な対応が出来なかった。特に情報の収集に問題があり、当初、政府は大した地震ではないとの思いこみがあった。
五、水道が断水したため消火活動が出来ず、また電気のショートやガス管から漏れたガスに着火したことで各地同時に火災が発生したこと。多くの焼死体を出した火災の発生箇所が靴の小工場の密集している地域であったため、ゴムや接着剤の溶剤など可燃物が多かった。
六、自衛隊と自治体が平時に緊密に連絡を取り合い、災害発生時の役割分担の取り決めを怠っていたこと。[被災地の消防隊や警察官も同じ被災者であるから初期の活動はできない]
七、災害発生時に適切な交通規制を行わなかったため、道路の渋滞により一分を争う救助活動や消火活動が出来なかった。

以上、列記してみると、これほどの死者が出たことは、不可抗力であったというより、人災であったと思わざるを得ない。尊い命を失ったことだから、これを謙虚に受けとめて、今後の災害に備えなければならない。

その後の被災地に対する援護活動では、想像以上に若い人たちのボランティア活動が活発で、無能な政府や行政に憤りを感じる中、明るい光をおぼえる。

この災害に対しての、外国の特派員の報道を見ると、日本人は、これだけの災害に遭いながら、秩序正しく、冷静であることに驚きをもって伝えている。親、兄弟、子供を失った家族が、大声で悲しみを訴えるでもなく、家や家財のすべてを一瞬のうちに失った人たちが、初期消火の遅れを、自治体に抗議することもない国民性は、外国人には、どうしても理解できないらしい。

このような国民性が培われた理由は、日本人が度重なる災害に何度も遭遇してきたことにある。
日本は世界でも珍しい火山国で、列島至る所断層が走り、過去に今回のような大規模地震が、度々発生し多くの人命が失われている。関東大震災では、なんと十二万人もの人たちが、倒壊した家屋の下敷きになったり、地震の後発生した火災で焼死した。また、津波による死者も多く、近くは奥尻島で、大きな被害があったばかりである。

秋に襲ってくる台風もまた大きな被害を与える。家屋の倒壊に伴う死者、出水による家屋の流失、山崩れによる圧死の犠牲者がでることも度々である。

このような災害が度重なって起こると、災害の発生は、人間の力では防ぎようがなく、それで命を失ったり、財産を失うことは、その人に運がなかったと考えるようになった。江戸時代は、これに加えて大火が度々発生した。当時の家屋は、屋根がこけら葺き[木の皮で葺いたもの]であったから、火の粉が降ってくるだけで、簡単に燃えだし、次々、類焼して、何万戸が焼失することなど、珍しいことではなかった。

度々の災害で、幕府は火付けの犯人を極刑にしたり、屋根のこけら葺きの上に牡蛎の殻を載せることを奨励したり[民家で瓦を葺くことは、一部の金持ちに限られていた。]大岡越前守は、延焼を防ぐため、防火帯として、道路の拡張を計ったが殆ど効果が無く、大火の発生は、明治になっても防ぐことが出来なかった。明治になって、度々の火災に懲りて、燃えない煉瓦造りの家を建てたのが、現在の銀座通りの起こりである。

しかし、度々発生する火災に慣れてくると、その復旧も早かった。九尺二間[クシャクニケン]の長屋と言われているように、建物の規格が決まっていたから、材木屋では、平素から材木を刻んであり、現場で組み立てれば、二三日で住めるようになった。また、多くの町人も、財産は布団と箸と茶碗と一つの鍋がすべてであったから、火災で逃げ出すのにも、家財道具を、ひょいと担げば、失うものは殆ど無かった。逃げ遅れて死ぬ者は、運が悪かったの一言でかたづけられ、この様な大火や火消しを、江戸の華などと言って、むしろ楽しんでいたようにも思われる。

日本人は桜が好きだ。華麗に咲いた花も、あっと言う間に散ってしまう。そこに人間の運命を重ねる。潔いことを美しいと感じる。確かに、こうも災害に遭うと、過去のことで、くよくよしていてもはじまらない。明日のことを考えて行動しなければ、生きて行けないのである。

戦争末期、神風特攻隊が、片道の燃料を積んで敵艦に体当たりをした。七生報国などという、今から思えば、馬鹿みたいな教育が、徹底して行われていたから、心からそれを信じて、国のため一命を捧げた人もいただろうが、その大部分の隊員たちは、きっと自分の運命だと考えたに違いない。こうして命の尊さまで、運命でかたづける国民性が、特攻隊を作り、隊員は文句も言わず死んでいったのである。

今回の地震の後、数人の友達に、東京でこのような地震が起こったらどうなると思うかと聞いたところ、多くの人が、倒壊した家の下敷きになるだろう、それも運命だよと答える。

東京都が発表している、東京直下型大地震発生の被害予測は、死者五万人と想定している。多くの都民が、五万人くらいは犠牲者がでるだろうなと受けとめているが、五万人も死者が出るのは大変なことだ。一人でも減らす方法は無いのかと言う人は見あたらない。

日本人が、人命の尊さをもっと認識していたなら、政府の対応が遅れることもなく、外国からの人命救助の申し出でにも、機敏に対応したはずであり、死者の数も少なくてすんだと思われる。災害が発生したら、犠牲者が出るのはやむを得ないと考えることを、早く改めなければ、同じ被害が繰り返されることになるであろう。

喉元過ぎれば熱さを忘る。災害は忘れた頃にやってくる。」

----------

神戸淡路大震災から今年で21年目、父の言葉がその後の新潟県中越地震、東日本大震災、昨年の関東・東北豪雨、そして今般の熊本を中心とする大地震にも当てはまる。「早く改めなければ」が改まらない。大災害の下にあっても秩序正しく振舞う人々の美徳に為政者たちがつけこんで、ついでに運命も受け入れるようにと仕向ける。「運命でかたづける国民性」にすり替えられてはならない。「絆」と「運命」は同じ意味であってはならない。

kobe--nagoya-50s_16934859566_o.jpg
(清水建設時代に父が設計にたずさわった神戸三ノ宮そごう=父撮影(昭和30年代)・神戸淡路大震災で倒壊)

(おわり)
posted by ihagee at 03:11| 日記