2024年01月28日

科学の社会的価値は安全保障にあるとする「特許出願の非公開に関する制度」


日本国の経済成長戦略の観点で、安倍政権は武器輸出原則禁止から、条件を満たせば認める方向に踵を返した。重石としてばかりでなく、殺し合いに最終的に調整を求める戦争にもその武器は使用される。

防衛産業の育成。防衛産業が成長戦略(アベノミクス)の一丁目一番地と安倍政権では位置付け、菅政権にもそのままこの位置付けは継承されている。

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防衛産業が成長戦略(アベノミクス)の一丁目一番地であるなら、軍事(技術)研究も学問の自由の内(橋下徹)などと他の諸学と同等に言うことは正しくない。内閣府の機関たる日本学術会議にあって、軍事(技術)研究を「(自由意志で)するしない」といった「学問の自由」などではなく、「しなければならない」という国民が果たすべき義務となる。憲法第23条(学問の自由)とは別に、憲法第15条1項に専ら拠って日本学術会議の被推薦者の任命拒否を行う権利(義務に対する権利)を声高に言うとは須らくそういう意味がある。

ゆえに任命を拒否するということは、被推薦者が「公務員」として義務を果たさしていない(または果たさないであろう)からに他ならない。その義務が成長戦略たる防衛産業(実質は軍需産業)への貢献である。その妨げになるそれら被推薦者の言論は排除する、が任命拒否となった。任命拒否の正当性を憲法第15条1項で言うことは「学問の自由」云々ではなく、国策に余計な首を突っ込まないような事なかれ主義を「公務員」でもある科学者に強要することである。

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武器を突き詰めれば、人間が自由にできる破壊的力を最大化し人類を恐怖と破壊に追いやってしまう可能性の最たる核兵器となる。あえて極言すれば、核兵器開発に手を貸すことも科学者の良心なのか?日本学術会議は「科学者の良心」を設立の礎にしてきた。

ゆえに軍事研究をする・しないといった「学問の自由」が問われているのではない。「科学者の良心」が問われている。。(「科学の樹」のないこの国の暗愚・続き4


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秘密特許制度(特許出願の非公開に関する制度)を旨とする経済安全保障推進法が2022年5月11日に成立し、同月 18 日に公布された経済施策を一体的に講ずることによる安全保障の確保の推進に関する法律(令和 4 年法律第 43 号。以下「法」という。)において、特許出願の非公開制度が整備された。

民生技術発明の中で安全保障上極めて機微な発明であって公にするべきでない発明については出願公開及び特許査定を留保する(保全指定する)ことで、民生技術発明を軍事など安全保障目的に活用することである。

「科学者の良心」なるテーゼを日本学術会議から剥ぎ取り、「デュアルユース」を国公立大学の研究成果に求めるものとも言える(国費による国公立大学に対する委託事業の成果にデュアルユースを求める)。

科学の社会的価値は先ずは国家の安全保障にあるというスタンスを「特許出願の非公開に関する制度」を以て明確化したわけである。

安全保障の観点を民生技術発明に持ち込み、安全保障と民生利用という「デュアルユース」を特許制度の枠組みを利用して内閣府が取り仕切り、民間の研究成果が戦争あるいは軍事に利用される可能性を意味する。特許制度での発明のあり方に、民生産業の保護育成よりも優位に軍事安全保障上の観点を持ち込み、突如として否応なく民生技術発明を国家が徴用することと言って良い(77条2項の規定による通知(保全指定の解除等の通知)を受けるまでの間は、保全指定特許出願人は特許出願の取下げによる離脱を禁じられる=特許出願を放棄し、又は取り下げることができない。)。

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保全指定を受けた発明の特許出願人及び発明共有事業者には、組織的管理措置(内閣府令第10条(法第75条第1項の内閣府令で定める措置))を講じることが求められる。その管理措置に伴い人的・物理的・技術的要件が保全指定を受けた発明の特許出願人及び発明共有事業者に課される(特許出願の非公開に関する制度における適正管理措置に関するガイドライン(第1版))。つまり、保全指定を受けた発明の特許出願人及び発明共有事業者に発明情報の適正管理措置を法は義務付けている。

さらに過酷なことに、法第 76 条第 1 項は、保全対象発明の内容を知る者の範囲がむやみに広がることを防ぐため、保全指定後に新たに他の事業者に保全対象発明に係る情報の取扱いを認めるときは、あらかじめ、内閣総理大臣の承認を受けなければならないこととしている。したがって、指定特許出願人は、例えば、保全指定中に他の事業者に製造を委託したり、他の事業者と共同で更なる研究をする場合や、弁理士に特許手続の相談をする場合など、保全指定中に事業者単位の枠を超えて、新たに他の事業者に保全対象発明の内容を共有する場合には、この承認を受ける必要がある。

保全指定:
「国家及び国民の安全を損なう事態を生ずるおそれが大きい発明について保全指定をし、情報流出の防止に万全を期することは、安全保障の確保という我が国の国益に鑑みて重要なことであるが、その一方で、保全指定という措置は、権利者が国内外を問わず発明の内容を開示することや実施することを制約するものであるとともに、第三者にとっては、非公開のまま特許法上の保護を受ける先願を生じさせるものであるため、以下に述べるとおり、経済活動やイノベーションに対する影響にも留意が必要となる。」
令和5年4月28日付閣議決定から)


保全指定とは、保全審査の結果、発明に係る情報の保全が適当と認めるときは、内閣総理大臣は当該発明を保全対象発明として指定することである(保全指定)(法70条1項)。保全指定の概要は以下の図の通り。
スクリーンショット 2024-01-28 9.44.57.png


RESEARCH BUREAU 論究(第 19 号)(2022.12)から引用)

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保全審査の期間に法律上の上限はないものの、実質的には、外国出願の禁止が我が国での特許出願後最大 10 か月(10 か月を超えない範囲内において政令で定める期間)で自動的に解除される仕組みとなっていることから(法第 78 条第 1 項ただし書 7)この期間内に保全審査を終える必要があるとされている。

また、保全審査の実施に当たっては、内閣総理大臣は、発明の内容に応じて、安全保障や対象技術について専門知識を有する関係行政機関への必要な情報提供要請や協議を行い、その知見を十分に活用して審査を行うこととなる(法第 67 条第 3 項、第 6 項)。

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米国特許出願の実務者には馴染みがあることだが、合衆国において行われた発明については、合衆国における出願から6月が経過するまではその発明を基に外国特許出願の許可が得られない(特許法第184条)制度がある(foreign filing license)。これは秘密特許を前提とした国家安全保障上の制度である。

わが国においては2013年に、国家安全保障会議(NSC)、国家安全保障局(NSA)が導入され、2016年3月には、安全保障関連法が施行されたものの知的財産分野においては具体的な対応がなかったことから、内閣府の下での保全審査はいよいよこの分野に及んだということだ。秘密保護法(特定秘密の保護に関する法律)の観点から保全指定の発明が同法による「特定秘密」に指定される可能性までもある。「特定秘密」を漏らした人、それを知ろうとした人を厳しく処罰する方向に働く可能性があるということだ。日米安全保障上の米国側の意向が絡むことから、この伏線を国民に知られないようにとの「配慮」なのか以下のような発言まで国会で繰り出されている。

「秘密特許という制度,これは考えなければいけない.秘密特許というから悪いんですよね.これは非公開特許とかといったらどうですか・・・・1948 年にマッカーサーによってこの秘密特許制度はだめだというふうになったという経緯もあってこれができていない ・・・・ けれども,こういう時代になりました.ここはそろそろ検討されるべきではないか ・・・・」(2018 年 2 月 23 日,衆議院予算委員会第 7 分科会.中谷真一議員(自民)).(「秘密特許制度導入の動きと 科学者・技術者のあり方」から引用)


事実、内閣府は日米安全保障のきな臭さが芬芬と漂う「秘密特許制度」ではなく「特許出願の非公開に関する制度」と言い、特許制度の話に落とし込もうとし、また、大新聞の第一面を埋めるべき重大な話であるのに、知的財産権という狭い分野にのみ関わる問題として知財専門誌に書かれる程度の扱いであることからも、「ナチスの手口」が働いているのだろう。

『「静かにやろうや」ということで、ワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか。』(麻生太郎「ナチスの手口」)


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保全指定の効果として、指定特許出願人に対しては、発明の実施の許可制(法第 73 条)、発明内容の開示の原則禁止(法第 74 条)、発明情報の適正管理義務(法第 75 条)、他の事業者との発明の共有の承認制(法第 76 条)及び外国への出願の禁止(法第 78 条)の制限が課される。こうした制限により、指定特許出願人に特別の犠牲が発生する場合があると考えられることから、法第 80条では、実施の不許可又は条件付き許可その他保全指定を受けたことにより損失を受けた者に対して、国が「通常生ずべき損失」を補償することを規定している。

しかし、出願段階に過ぎない発明の保全指定特許出願人に対して、基本指針案では「損失補償を受けようとする者は、補償請求の理由や補償請求額の総額及びその内訳、算出根拠等を示し、その損失について補償を受けることの相当性を示す必要がある。例えば、実施の許可の申請時の事業計画等を基に補償を請求することが想定される。このとき、十分な根拠が示されていない損失については、補償の対象とならないこととなる。」などと、補償を受けることの相当性の説明責任を課すものでもある。相当性について判断の根拠とすべき算定基準が未だ不明であるのだから、この補償制度は画餅の域を出ない。

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以上の事柄を総覧すると、「特許出願の非公開に関する制度」なる秘密特許制度の民間での経済活動やイノベーションに対する心理的影響は少なからずあるだろう。それよりももっと懸念されるのは戦争遂行の原動力としての「学術」の意義付けと国家による学術への行政的関与であり、「学術行政」の強化に踵を合わせ軍事目的の科学研究に励んだ戦前の「日本学術振興会」に日本学術会議を立ち返させようとする動きである。国費で紐付けられた国公立大学や研究機関も然りである。「特許出願の非公開に関する制度」の射程は安全保障上極めて機微な発明を偶然した民間の事業者などではなく、学術行政の対象となる国公立大学や公的研究機関なのかもしれない。

保全指定が解除されない場合もあり得るわけだし(その場合、保全指定された発明は米国の軍事当局、更には国防総省と関わりが深い米国大企業に取得される虞がある)、解除されるまでは非公開であるのだから「秘密の先行技術」となり得、それを知らない他の出願人にあっては潜在的な主題の重複を避けるため保全指定の発明と自分の発明を区別する機会がなく発明活動(インセンティブ)を弱めることにも繋がりかねない。反面強まるのは学術と軍事との関係である。

知的・文化的価値と経済的・社会的価値との双方にまたがる豊かさの源泉たる「学術」の意味が今まさに問われている。

日本学術会議は 1950 年に「戦争を目的とする科学研究には絶対従わない決意の表明(声明)」を、1967 年には「軍事目的のための科学研究を行わない声明」を発出した。近年、軍事と学術とが各方面で接近を見せている。その背景には、軍事的に利用される技術・知識と民生的に利用される技術・知識との間に明確な線引きを行うことが困難になりつつあるという認識がある。他方で、学術が軍事との関係を深めることで、学術の本質が損なわれかねないとの危惧も広く共有されている。(安全保障と学術に関する検討委員会資料から)


(おわり)


posted by ihagee at 08:57| 政治

2024年01月12日

知財高裁判決の法理の欠陥(IOC登録商標「五輪」)


国際オリンピック委員会(IOC)を相手取ってその登録商標『五輪』の無効を求めた知財高裁訴訟(令和4年(行ケ)第10065号)は原告敗訴となった。

さらに原告側は最高裁に上告受理申立を行ったものの、民訴法第318条1項により受理すべきものとは認められない旨の最高裁の決定(門前払い)で、知財高裁判決が確定した。

この経緯については原告の一人である柴大介弁理士の「特許の無名塾:五輪知財を考える」ブログ記事を参照されたい。

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さて知財高裁訴訟で原告の申し立てた取消事由1について、私なりに法理の欠陥を指摘したい。

取消事由1と知財高裁の判示は以下の通りである(同上ブログの「IOC登録商標『五輪』上告受理申立:取消事由1に対する判決の論理破綻」記事から抜粋引用)。

〔原告の主張〕
原告らは、
➀被告(IOC)は、外国会社ではなく、法律又は条約の規定により認許されていないから、我国において認許された外国法人(民法35条1項)とはいえない。
➁パリ条約2条は、同盟国に属する外国法人がパリ条約の他の同盟国で認許されることを定めたものではなく、パリ条約には、他にこれを定めた規定は存在せず、パリ条約の規定を根拠として、被告が、「条約の規定により認許された外国法人」(民法35条1項ただし書)に該当するということもできないとして、
➂被告は、日本国において、商標権者となるための権利能力を有しないから、本件審判における被請求人適格を有さず、本件審判手続きには、この点を看過したまま審理を行った、重大な手続違背がある旨を主張する。

〔判示〕
そこで検討するに、民法3条2項は、「外国人は、法令又は条約の規定により禁止される場合を除き、私権を享有する。」と規定し、同項の「法令の規定により禁止される場合」として、

特許法25条は、「日本国内に住所又は居所(法人にあっては、営業所)を有しない外国人は、次の各号の一に該当する場合を除き、特許権その他特許に関する権利を享有することができない」と、同条3号は「条約に別段の定があるとき」と規定し、商標法77条3項は、特許法25条を準用している。

そして、特許法25条柱書きの「外国人」には、外国法人が含まれ、また、同条には、外国法人について民法35条の認許された外国法人に限定する文言はないから、認許されていない外国法人も、特許法25条柱書きの「外国人」に該当するものと解される。

しかるところ、パリ条約2条1項は、「各同盟国の国民は、工業所有権の保護に関し,この条約で特に定める権利を害されることなく、他のすべての同盟国において、当該他の同盟国の法令が内国民に対し現在与えており又は将来与えることがある利益を享受する。すなわち、同盟国の国民は,内国民に課される条件及び手続に従う限り、内国民と同一の保護を受け、かつ、自己の権利の侵害に対し内国民と同一の法律上の救済を与えられる。」と規定しており、・・・特許法25条3号の「条約に格段の定があるとき」に該当するものと解される。

そして、被告は、スイスの法律に従って組織されて存続する法人であり、日本国およびスイスは、いずれもパリ条約に加盟しており、「同盟国の国民」であること(乙4)からすると、被告については、上記「条約に別段の定があるとき」該当し、同条による権利の享有の禁止は適用されないと解すべきである。

以上によれば、被告は、商標権その他商標に関する権利を享有するものと認められるから、原告らの上記主張は、その前提において採用することができない。

知財高裁は、原告の上記主張に対して、民法3条2項を前提に、特許法25条を持ち出し、そこにパリ条約2条(内国民待遇原則)を適用して、IOCは商標権を享有できるとの結論を導き、原告の主張は前提において採用できない、という、前代未聞のアクロバティックな論理展開を繰り広げたのでした。(「IOC登録商標『五輪』審決取消訴訟:判決(審決維持)右矢印1 舞台は最高裁へ」から)


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以下は私見である。

民法3条2項「外国人は、法令又は条約の規定により禁止される場合を除き、私権を享有する。」


特許法25条「日本国内に住所又は居所(法人にあつては、営業所)を有しない外国人は、次の各号の一に該当する場合を除き、特許権その他特許に関する権利を享有することができない。
三 条約に別段の定があるとき。」
(商標法77条3項が準用)


民法上、権利主体となり得る「人」には自然人と法人が含まれるが、民法3条は「私権の享有は、出生に始まる」自然人であり、同条2項は私権=私法上の権利が誰でも生まれた時点から持っている内国自然人と同様の自然人である外国人の権利能力の範囲について定めた規定である(一般権利能力者としての自然人)。但し、法令または条約の規定によってはその私権の享有が禁止される場合がある。

一般権利能力とは、人が私法上の権利・義務の主体となりうるための法律上の資格を指す。人は生まれながらにして、このような権利能力を有することを民法第3条は定める。どの国の法律による場合であれ、生命のある人間には一般権利能力が与えられるべきであるため、その有無について準拠法を選択する必要はない(但し、始期や終期については準拠法に従う場合がある)。

民法3条2項に拠れば、外国人の私権の享有の有無については準拠法を選択する必要はない。「(但し)法令又は条約の規定により禁止される場合を除き」はあくまでも一般権利能力に係る個別的権利能力の制限であるから、準拠法の決定が重要になる場面とは自然人についての個別的権利能力の制限の場面である。
例:胎児の父親が交通事故で死亡した場合、胎児にも相続権や損害賠償請求権が与えられるかどうかという問題(権利能力の始期)

他方、権利享有主体間の区分上では個別的権利能力の表題の下に外国人・法人が含まれる。

個別的権利の帰属が否定されたり制限される例外的事例を権利享有主体の側から表現するための言辞が「特別権利能力」の概念であるが、「特別権利能力」の主体には自然人のみならず法人も含まれる(特許法25条)。しかし民法3条2項がその前提にあるということは、一般権利能力者 (内国自然人)の概念である民法3条2項「外国人」に「外国法人」が含まれることになる。特許法のうちの権利法の部分は民法の特別法とし、一般法(民法3条)に対して特別法(特許法25条)が優先する「特別法は一般法を破る」法諺に従ってこのように適用関係が決定されたと理解されるが、係る適用関係では一般権利能力と特別権利能力とを等置しており、その妥当性を容易に説明することが疑わしい状況が生じると考えられる。その状況とはまさしく原告が取消事由1で述べた「被告(IOC)は、外国会社ではなく、法律又は条約の規定により認許されていないから、我国において認許された外国法人(民法35条1項)とはいえない。」ということである。

登録商標「五輪」は特許庁が「五輪」異議申立事件で自ら明らかにした通り、商標法4条1項6号に基づく公益著名商標であり、であればその商標を有するIOCは外国の公益法人である筈だから、外国の公益法人は認許することは日本の公益に反するおそれがあるという理由から承認なくしては認許されない(cf. 外国会社は特別の承認なくして認許される)。外国法人を認許することは、新たに権利能力を与えるのでなく、外国法人として権利主体であることを承認することであり、その認許は民法35条(外国法人)の規定に拠る。認許なき外国法人はわが国の法律では権利主体となり得ない。不認許法人の活動は権利能力なき社団・財団の名において活動することになり、その法人の名で行った契約に基づく権利義務はその社団・法人の代表者の名において行使され履行されるという規律を受ける。商標法で言えば、権利能力なき社団は権利・義務の主体にはならないためそもそも商標権者にはなれない(IOCは商標権者となり得ない)。つまり、権利主体として承認されていないIOCのわが国での活動はこのような規律を受けることになるところ、知財高裁はそうではないとまで結果として判示したことになる。百歩譲って知財高裁の論理を認めたとしても、工業所有権の保護を目的とするパリ条約上の内国民待遇の原則をもとにIOCの権利能力を認める限り、それは商標法の法益に限定された権利能力でしかない。つまり、商標法上のみIOCに権利能力を認めたことになる。登録商標「五輪」の無効を原告は求めたのであるから、知財高裁は商標法の法益にのみIOCに権利能力を認める論理に徹すれば良いわけである。

ところが、この論理の前提は民法3条2項「外国人は、法令又は条約の規定により禁止される場合を除き、私権を享有する。」であり、同項の「法令の規定により禁止される場合」として、商標法77条3項が準用する特許法25条3号を持ち出している。これは一般法である民法3条をその権利法の部分において特許法25条で破ったことになるわけだから、民法上の権利能力まで認定する判示でもある。

斯様に外国法人の認許(承認)は民法(一般法)に拠るところを、特別法(特許法25条)が優先する法理の妥当性を取消事由1に即して知財高裁は詳にせず、アクロバティックな「論点先取(証明すべき命題が暗黙または明示的に前提の1つとして使われるという誤謬の一種)」を行ない、パリ条約2条1項の内国民待遇の原則を適用し特許法25条3号の「条約に格段の定があるとき」との論理は、結果として「法律又は条約の規定により認許された外国法人は、この限りでない。(民法35条1項)」が特別権利能力の権利享有主体に専ら係る特許法25条3号の「条約に別段の定があるとき」と等置することになりその法理の妥当性も知財高裁は詳にしていない。

妥当であるどころか、商標法の法益上の権利能力の認定を超えて民法上の権利能力まで認定する判示となった。これは明らかに法律解釈の違反であり最高裁で争われるべき場合に該当する。

「特別権利能力」の表題の下に外国法人を取り扱うことは、一般権利能力者 (内国自然人)・特別権利能力者 (外国人・法人)を区分するに等しいものであり、民法における「人」の把握としては適切でないからである。

「特別権利能力が権利能力として考えられるのは個別的権利能力の問題としてである。自然人の権利能力を一般的に剥奪しない近代法においても、個々の権利は剥奪される。特別能力が外国人の権利享有問題として問題となるのはこの意味においてであり、それは個別的権利能力の問題」(西賢「国際私法における能力」神戸法学雑誌七卷四号 (一九五八年)七一六頁=同・国際私法の基礎 (晃洋書房 一九八三年)四八頁)との指摘が明言するように、およそいっさいの自然人に権利能力が承認される構成のもとにあって、個別具体的な権利の帰属が否定されたり制限される例外的事例を権利享有主体の側から表現するための言辞が「特別権利能力」概念なのであった。ここでは、一般・個別の関係があるのみである。もともと、一般権利能力と特別権利能力とを等置するのは権利享有主体間の区分そのものと誤解させかねないのであるが、四宮・前掲書のように「特別権利能力」の表題の下に外国人 (そして法人)を取り扱うにいたっては、一般権利能力者 (内国自然人)・特別権利能力者 (外国人・法人)を区分するに等しいものであり、民法における「人」の把握としては適切ではないだろう。(立命館法学 一九九七年三号(二五三号)四七四頁(二六頁)


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原告は被告(IOC)の権利能力の認定に手続違背があったとして争ったが、そのような審理不尽ではなく、法律解釈の違反があったと争うべきであったのかもしれない。いずれにせよ最高裁は上告申立を不受理としたわけであるから、手続違背については判決が確定し一事不再理の原則が働くが、法律解釈の違反については尚、上告理由となり得る。

追記:内容一部改訂(2024/1/13)

(おわり)



posted by ihagee at 16:25| 東京オリンピック

2024年01月08日

巴(ともゑ)の酒(函館・菅谷善司伝)



「百万ドルの夜景」そんな言葉があった。

イルミネーションに縁取られた煌びやかな夜景のことで、ハリウッド映画辺りに言葉の所以があるのかと思っていたら、昭和20年代に「六甲山から見た神戸の電灯の電気代」に絡めて電力会社が考え出したキャッチコピーらしい。そして「百万ドル」なる価値基準は「百万ドルトリオ」(ハイフェッツ・ルビンシュタイン・フォイアマン)からの転用のようだ。本国(米国)でもそう彼らは総称され、私の祖父の時代、ベートーヴェンの大公トリオの音盤は「百万ドルトリオ」か「カザルストリオ」(カザルス・コルトー・ティボー)と相場が決まっていた。

日本三大夜景なるものもあって、「函館山から見る函館市の夜景」「六甲山(摩耶山)・掬星台から見る神戸市・阪神間・大阪の夜景」「稲佐山から見る長崎市の夜景」がその三つとなっている。

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その一つ「函館山から見る函館市の夜景」は昼間でもその景色の明媚さは比類ない。海辺が陸に抱きこまれた函館の港はその形から巴(ともゑ)湾、そして風順なことから綱不知(つなしらず)の港とも呼ばれている。巴は函館の市章でもある。

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新鮮な魚介類が水揚げされ、それを目当てに多くの観光客が訪れるが、その海の幸に供する地元の清酒がない。北の誉酒造(小樽)、國稀酒造(増毛)、男山(旭川)、福司酒造(釧路)など、北海道には少なからず清酒の蔵元が存在する。が、函館には蔵元がないのである。

これでは画竜点睛を欠くとばかりに、北海道新幹線開業を記念し、青森弘前の六花酒造が、函館の酒米(吟風)を白山山系の水で仕込んだ純米大吟醸清酒「巴桜」を発売した。巴は函館、桜は弘前城に由来する。

県外の蔵元ではあるが、ようやく函館に「地酒が戻ってきた」と喜ぶ声が多い。

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その昔(明治時代)、函館にも清酒の蔵元が二十数軒あった。そのことを覚えている人はもういないかもしれない。

「丸善菅谷商店」がその筆頭であった。その主、菅谷善司(安政2〔1855〕〜. 明治41〔1908〕)は明治期の「北門名家誌」に載る名士であった。

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菅谷はラムネ製造販売から事業を始めた。

ラムネ(つまり、炭酸入りレモネード)に日本人が最初に出会ったのは、米国ペリー提督浦賀来航の折(1853年・嘉永6年)と伝えられている。キュウリ壜のコルク栓を開ける際の炭酸の放つ音に驚き、幕府の役人たちは思わず刀の鍔に手をかけたとかの逸話もあるようだ。

「明治元(1868)年に築地居住地が開かれると、入船町軽子町畔に蓮昌泰という中国人がラムネ屋を開店している。同じ年、横浜ではイギリス人ノースレーが機械、ビン、香料、炭酸などを輸入してラムネの製造販売をしている。(『図説明治事物起源事典』 湯本豪一/著 柏書房 1996年)」

横浜や神戸あたりでは、舶来のラムネが出回っていたようだ。明治十年代にコレラが大流行すると、「瓦斯を含有した飲料水を飲むと恐るべきコレラ病にかかることなし(東京毎日新聞)」と喧伝されたこともあって、ラムネは庶民の間でも飲まれるようになった。

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函館実業界の大立者・渡邉熊四郎が購入した舶来のラムネの製造機械を用いて、金森ラムネ製造所の名義を以て、明治23年、菅谷は日本人として初めてラムネの製造に成功した。金森は渡邉の屋号で、函館の観光名所「金森赤レンガ倉庫」のその元は渡邉が明治時代に開業した金森洋物店である。

菅谷は日本人として最初にラムネを製造した人物となる。

菅谷のラムネは函館の港に停泊中の軍艦から注文を受けて生産し大いに儲け、それを資金として菅谷は谷地頭に洋酒製造所を建てたようである。

ラムネ製造はその後石垣隈太郎が続いたが、石垣もラムネでの儲けを元手に北洋漁業・海運業に転じた(石垣が函館ラムネ界の先覚者とされている)。

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函館山の裾には「谷地頭(やちがしら)」という地域がある。水が溜まってジメジメとした沼地を「谷地」、虚ろな眼(まなこ)の様に見える沼の穴のことを「谷地眼(やちまなこ)」と言う。その沼を明治11年(1878年)の函館大火後の整備事業として埋め立て人が住みはじめたのが「谷地頭」である。併せて温泉も掘り当て、温泉地でもある。

新開地であった谷地頭に明治23年、菅谷は洋酒(再製葡萄酒)製造所を建てた。

「北門名家誌・1894年・魁文舎刊」の記載に拠ると、

「国産たばこに印税を課した為に輸入たばこが出回り、国富が害され、酒も同様で日本酒を捨てて舶来の洋酒を嗜む時世となったが、菅谷善司はこの時世を見抜いて、洋酒醸造を志すべく郷里(千葉)から京阪の商界を歴遊し、渡米して洋酒醸造の法を研究・伝習して明治22年2月15日に帰国した。
横浜に洋酒醸造所を設け、輸入洋酒の勢いを殺いだ。
明治23年函館・谷地頭に洋酒製造所を設け広く販売に従事した。
世人の好評を得て、兎印薬用葡萄酒、兎印薬用ブランデー、鷲印香鼠葡萄酒、菊水白酒、菊水焼酎薬用焼酎等で、賞揚せられたのも、海外で勉強研究した効果である。(原文は文語体)」

ということらしい。

輸入葡萄酒はそのままでは当時の庶民の味覚の嗜好に合わなかったのだろう。「香鼠葡萄酒(こうざんぶどうしゅ)」は輸入葡萄酒に蜂蜜や砂糖で甘味をつけハーブで風味を高めた再製葡萄酒である。この「香鼠葡萄酒」の日本で最初に製造したのは 神谷傳兵衛のようだ(1886(明治19)年「蜂印香竄葡萄酒」)。

「香竄(こうざん)」は神谷傳兵衛の父の俳句の雅号から由来しているので、菅谷の鷲印香鼠葡萄酒は神谷のそれを真似たものかもしれない。

「香鼠」や「薬用」といった再製に飽きたらず洋酒醸造の道一筋にワインやウィスキーを究めた神谷やマッサン(竹鶴政孝)とは異なり、菅谷は手広く事業を行っていたようだ。丸善菅谷商店の広告の見出しがそれを表している。

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「銘酒醸造販売・洋酒缶詰各種・札幌ビール特約店・輸出品各種・雑貨類、そして日本酒醸造元」

神谷傳兵衛がフランス人に、マッサンがスコットランドで学んだように、渡米し酒の醸造を学んだ菅谷であるから英語は堪能だったようだ。その英語を菅谷から伝授されたのが私の曾祖父である。

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私が生まれた時、明治元年生まれの曾祖父は健在で94才の腕に抱かれた当時の写真が残っている。

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政商として満州(大連)で成功した資産家であり、明治人らしく気骨稜々たる人生を歩んだようだ。そして筆まめなこともあって自分史について克明な記録を残していた(曽祖父についてはさらに「一枚の舌と二個の耳」で触れている)。

その記録の中に菅谷が登場する。

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「私は変なことを言いますが、私を16〜7才のころから面倒をしていただいた人で菅谷善司という人があります。この人は子供がないので私を子にするつもりでおられたので、その人のおかげで英語も話せるようになって、横浜商館に入れる基礎ができました。」

「私は18才のとき、横浜に行き居留地三十番館サミュエル・レビュー商会に入社したのです。この会社は米商であったが輸入する物は時計から食料品、飲料品なぞなんでも各国の物が輸入されて帽子からシャツ類まで諸雑貨があったのです。それを日本人の商人に売るために、初めは取引人という名前で日本人が横浜に店を構えて中継ぎをしていましたが、後には私共が東京に行き商人と売り買いすることになってきたのです。それから外国よりなんでも輸入してくるようになって外国品は需要が高まりそれと西洋文明を見習うために多くの人が舶来ものを好むようになって、その売れ行きは日に日に高まってくるのです。ちょうどその当時役者・川上音二郎が俗謡で唄ったようになったのです。」

「相州の「秦野」という土地は煙草の葉が産出するので、それを私がレビュー商会に在勤中、買い出しに行ったが、横浜からわらじ履きで通ったものであります。聞くところで、葉巻の煙草の中に巻き込むと質が良いので、外国人は好むとかで、大きな貿易品となって輸出されたのです。」

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「国産たばこに印税を課した為に輸入たばこが出回り、国富が害され」ることに憤り、舶来品に負けない国産品を作ろうと思い立ったことが、菅谷が事業家を志すきっかけであった。曾祖父も菅谷から強い影響を受けたことだろう。秦野の煙草の葉の話もどこか重なるところがある。

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さて、明治23年函館・谷地頭に洋酒(再製葡萄酒)製造所「丸善菅谷商店(社屋は地蔵町)」が建てられた。

明治29年には音羽町に酒造場(清酒)が建てられ(職工13名)、明治37年には谷地頭に第二酒造場(焼酎)が建てられた(職工4名)。 明治38年の函館の清酒・焼酎の製造量・製造額に於いて、丸善菅谷は同業他社を抜いて筆頭の地位だったようだ。

谷地眼の土地ゆえに水に恵まれているように思えるが、鉄分が多い硬水で酒の仕込み水としては使えなかった。函館近郊の大沼で有名な七飯から水を取り寄せたようである(後に焼酎の酒造場は七飯に移る)。また、酒米も道外に求めたようだ。低廉な酒には安価で品質が安定した越後や佐渡の米を、上等な酒には兵庫県氷土群の天穂(山田穂?)を取り寄せて使った。

酒造場(蔵元)のみ函館とはいえ、函館の清酒であることに変わりなく、丸善菅谷の醸した「北遊」「菅ノ井」「巴港一」は、北海道十一州清酒品評会で一等賞を受領した函館を代表する銘酒であった。

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上述の三種に加え「北正宗」「丸善正宗」「鍔正宗」「五陵正宗」も好評を得、菅谷は北海全道清酒品評会の副会長に就任した。

清酒の評判を受けて、青柳町の醸造庫は年々その数を増す程、醸造業は繁盛した。しかし、国内にばかり営業するのは菅谷の志ではなかったようだ。商業会議所議員としてロシア領沿岸に度々調査に赴くなど、菅谷はロシア沿岸、そして朝鮮(元山津)にまで営業の場を求めた。明治40年「丸善菅谷商店」は「丸善菅谷合名会社」となり、これからという時に菅谷は死んだ(明治41〔1908〕)。53才であった。

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明治45年4月12日、函館は大火に見舞われた。火元は音羽町で、その音羽町にあった丸善菅谷合名会社の清酒酒造場は焼失した。函館市本町に清酒酒造場を建て直し、七飯村酒造場の焼酎とともに、道内一円及び樺太を販路に酒類・食料品の販売業を続けた。

しかし、醸造業界にあって、清酒・焼酎共に石数に応じた生産調整が行われるようになり、造石高の元々少ない丸善菅谷合名会社は、経営基盤の強化が必要となり、昭和12年に札幌燒酎株式會社に吸収合併された(札幌の日本清酒も合併)。

その前年、昭和天皇の本道行幸を記念して丸善菅谷合名会社は七飯の酒造場から「君萬歳」と銘じた焼酎を販売していた。

丸善菅谷合名会社の代表銘酒「五陵正宗」とこの由緒ある「君萬歳」が、札幌燒酎株式會社に引き継がれたようである。

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(1955年積丹美国)


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(1957年花祭り・積丹美国)


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「五陵正宗」はしばらく本町の酒造場で製造されていたようだが、昭和30年代にその本町に丸井デパートが十字街から移ることになり、酒造場は閉鎖され「五陵正宗」も消え、「丸善菅谷商店」に始まる函館の銘酒の系図はここに終焉した。

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曾祖父は菅谷善司をこう綴っている。


「その恩人である人が私が大連にいるとき死なれる前、病院でしばらく居てくれと言われたのだが、その時は大連で私は事業上おることのできないので、惜しき別れをしてそれきりでありましたが、その人が日蓮宗、俗に云うカタボッケと云う信仰者であって、身延山に遺骨を納めてありました。私は位牌堂に赴いて拝礼しているとき、何万という位牌があるのに、その菅谷善司氏の位牌が目に入り、住職に頼み手に取ってみますと、確かに本人の位牌でありますので私は不思議に思っておりましたのですが、今日、私はブリストル先生のサイエンスを研究しておりますが、これは私の信念の魔力が働いていると信じますと、こんな風になるものだと信じまして、昔のことを思い出して嬉しくなりますのです。」

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曾祖父の信念の魔力が死に目に合えなかった恩人の位牌を引き寄せた。

「五陵正宗」の現身かのように「巴桜」に働いたのは、もしかしたら菅谷の思い残した信念の魔力なのかもしれない。

魂の形に見える巴(ともゑ)の力なのだろう。巴(ともゑ)湾なる函館の持つ魔力なのかもしれない。

以上、写真一部更新の上再掲載しました。

(おわり)

追記(2024年1月10日):
上川大雪酒造(北海道上川町)が1月17日、函館に新設した酒蔵「五稜乃蔵(ごりょうのくら)」(函館市亀尾町)で、初出荷を控えた新酒のラベル貼り作業を報道陣に公開した。五稜乃蔵は、同社が上川町「緑丘(りょっきゅう)蔵」、帯広市「碧雲(へきうん)蔵」に続く道内3つ目の酒蔵として旧亀尾小中学校跡地に建設。木造2階建ての建物に1500リットルの醸造タンク8基を備える小規模な酒蔵で、昨年11月に完成した。総杜氏の川端真治さんが指揮を執り、道産の酒米と地元の水を使った「手作りの酒」を少量ずつ醸す。函館市内に酒蔵ができるのは、「五稜正宗(ごりょうまさむね)」の銘柄を地元の酒蔵から引き継いだ日本清酒(札幌市)が本町にあった工場を閉鎖した1967(昭和42)年以来54年ぶり。(函館経済新聞 2022年1月17日記事から引用)

posted by ihagee at 13:45| エッセイ